1月に入って、今学期の授業のことを頭の片隅に置きながら、色々な本を読んでいる。僕はこの、まだ固まりきらないアイディアを授業に向けて考えながら読書をする時間が好きで、授業について本の著者とあーだこーだと対話しながら考えている気分になる。そんな正月の読書の中から、大村はま『日本の教師に伝えたいこと』を読んで考えたことを、自分用のメモとしてとりとめなく書いておこう。
『日本の教師に伝えたいこと』は『教えるということ』『教室をいきいきと1・2』と同じく、大村の講演録だ。1990年から93年の講演録をまとめたものなので、先行するそれらの本よりはだいぶ後の本になる。そして、大村の本に共通することだが、手元に書き留め、折に触れて読み返したくなる言葉がある。今回のエントリでは、その言葉を引用して考えたことを簡単にメモしたい。
教師のデモンストレーションと書くことの日常化
僕のブログでは「書くことを教える教師は自ら書き手でないといけない」という主張が度々出てくるが、大村もまた次のように述べている。
「身をもって」ということは「自ら実際にやる」ということですが、意見文を書く場合ならば、教師が実際に意見文を書くことです。子どもたちが書いている途中で、しっかり意見を立て直してやるとか、いろいろなことが技術的にできないといけないと思います。そのためには教師が自分でどんどん書くのです。つらいけれども、それ以上の方法はないと思っていました。あまりにつらいので、そうたびたびはできませんでしたけれども。(p54)
ここの「あまりにつらい」が、大村ほどの人であればそんなはずはないのだがと不審に思って読んでいると、その後に意見文を創作する授業の実例が出てきて、やはり僕とは全然違った。僕のように家で書いているものを途中途中で子どもたちに見せるのではなく、本当に授業中にこどもと一緒に一緒に書いているのだ。
この方法での効果は、なにか不思議なほどのものがありました。そこに文章がひとつ、なまなましく書かれるということは、不思議な力になります。教えたかったようなことは、それでたいてい、子どもたちが一人で悟ってしまいました。(p56)
まさに教師がデモンストレーションを通じて教えている例。自分がこれをやってしまうとカンファランスを捨てることになるので、なかなかその決断はできないのだけれども。
同じ書くことの指導では「筆まめになる」ことの価値が強調されている。
話を、文章を書くことに移しますと、まず筆まめということがあります。筆まめと言うのは基礎の基礎です。文章の構成など、ずいぶん骨を折って工夫して教えても、筆まめになっていないと、あまり生活の中に幸福をもたらさないでしょう。
正直なところ、僕の「作家の時間」では、この「筆まめ」という部分がまだまだ足りていない。読むことや書くことの日常化は、いつでも僕の課題である。
子どもを尊重すること
次の文章に書かれる子どもの相互評価のあり方については、深くうなづくところだ。
スピーチの学習などで、友だちがつぎつぎと話すときに、どっちが上手、どこが間違ったかなどと子どもに聞く指導者がありますが、そういうことは、指導者が責任を持ってやっていくべき仕事で、子どものする仕事ではありません。そういうふうに聞いているのは、むしろよい聞き手ではないと思います。…ほかの子どもが読んでいるときに、どこを間違うかなどと、そんなことを考えながら聞いているなんて、実に嫌な聞き手だなと、私は思います。いちばんいい聞き方は、聴きほれていることではないかと思います。(p93)
スピーチだけでなく、書くことでも同じだと思う。改善点の指摘などは、教師の仕事だ。子どもは、読み惚れていれば良い。というか、そういう読み手を育てることは実はとても難しいのだ。最終ゴールではないかとすら思う。そういう意味で、彼女の子どもへの期待はとても高いし、子供扱いしていない。
教師自身が答えを持っていることを、授業の進行上、子どもに聞いたりする。それは相手を一人前に扱わない失礼なことだと思います。自分の知っていることを知らないような顔をして聞くのは、普通の人はやらないことです。子どもだからいいというものではない。子どもを尊重するとは、そういうことだと思います。…そして、そのようなことばのやりとりでなく、ほんとうに真剣に尋ね、答える場は、単元学習でないと、なかなか得られないと思います。…そういうときに真実の言葉が育っていくのです。(p218-219)
こちらの言葉も同じく、子どもを子供扱いしていない。そして、単なる心がけではなく、ほんとうに真剣に尋ねて答える場として、単元学習の価値を感じていることがわかる。自分の授業はどうだろう。真剣に尋ねて答える場になっているだろうか?
今回のエントリは、特に構成などを考えずに、気になった言葉をメモしてそれに答えて書く形式をとった。こんなふうに、大村はま自身のことばを書き留めて、それを鏡のように使って、応答しながら自分の授業を見直してみる。僕にとって彼女はそういう先達の一人である。今回もこうした作業をしながら、来週から始まる国語の授業について考えていこう。