[読書]授業記録について考える材料を色々ともらったな。授業づくりネットワークNo.48『揃わない前提の授業を見る・感じる・考える』

授業づくりネットワークの最新号No.48『揃わない前提の授業を見る・感じる・考える』が話題になっている。評判の前号No.47『揃わない前提の授業とクラス』を受けての「実践編」的な位置づけでもあり、前号にはなかった実践記録が10本揃っている号だ。今日はその感想を書く。

ところで、僕は今年度、風越学園の校内研修で、授業づくりネットワーク理事で本誌にも寄稿しているとっくん(片岡利允さん)が主催している「授業記録を読む・書く」に参加中だ。僕自身も一学期のうちに3回授業記録を書いている。それもあって、今回のエントリは、その校内研修で考えたことにも触れるし、今号の内容も、それぞれの授業の中身というよりは、書き方に意識を向けた記事になっている。だから、いわゆる「レビュー」ではないことはご承知いただきたい。

目次

前提として….No.30は良いよ!

まず、本号(No.48)を読む前提として、授業づくりネットワークNo.30『授業記録を読もう!書こう!』を読んでおくといいよ、ということは伝えておきたい。特にNo.30の佐内信之「授業を記録するということ」は、授業記録の伝達可能性と再現可能性という、No.48巻頭鼎談で出てくる用語の解説から始まり、No.48の授業レポートの最多4本を占める「ストップモーション方式」の意義に至る、本書の重要な補助線になる文章。授業記録を読む価値に触れた石川晋「授業記録を読むということ」とともに、読むと今号の理解が深まるのでおすすめだ。

「子どもに聞く」は正しいのか?

本誌の巻頭を飾るのは石川晋・佐内信之・園部友里恵の鼎談「揃わない前提の授業記録と即興」。読み手の側の事情として、もともと「子どもより授業が、授業より授業準備(教材研究)が好き」タイプの僕は、「インプロ」とか「即興」が大の苦手で、この鼎談をやや引き気味に読んだことは告白しておく。何事もいきなりやるより先にリサーチしたいタイプなので、部分的には共感できない箇所は多々あった。ただ、それを超えて、もともと学校が即興的なものを孕まざるを得ないことは間違いないし、そんな学校での営みを、「即興的なものと記録のなじまなさ」(石川)を、超えてどう記録していくのか、そのヒントを園部さんの本に探ろうとする趣旨はとても面白く読めた。

そして、この鼎談で「子どもに聞く」ことの大切さが言及されていたが、これを読んで個人的に思い出したことがあった。実は、今学期僕が書いた授業記録で、ある特定の子に注目して観察した回があった。その子は、一見ちゃんとやるように見えて授業の参加度が低く、課題などはそつなく出すものの、授業中は隣の子とおしゃべりして過ごしていることが多い…という子である。実際に記録をとると、笑っちゃうくらい活動に参加していない姿が明確に浮かび上がるので、「どうしてこんなにスタッフの話を聞かずにおしゃべりばかりしてるんだろう?」と素朴に疑問に思ったのだ。で、本人に聞こうかな、と思った。でも迷って、最終的には聞かなかったのだ。

聞かなかった最大の理由は、「まあ自分がサボっているところを知らないうちに観察されて、『なんであの時サボってたの?』と聞かれるのは、どう慎重に聞いても不意打ちされた気持ちになるだろうな」と思ったから。悪くすると、その子と僕の今後の関係に影響しかねない。また、インタビューされて答えたことは、インタビュー行為が生み出す擬似現実であり、そこで彼が話したことですら、本来は解釈の材料の一つにすぎない。なのだが、その一方で子どものインタビューは「本人の言葉」として、まるでそれが真実であり他の解釈を許さないかのような一定のパワーを持ってしまう。子ども中心主義を標榜する人ならなおさらだ。

だから、「子どもに聞く」のは、あくまで手段の一つとして持っておくのはいいけど、その取扱いはケースバイケースじゃないかな。インタビュー対象の子と日常的に関係を持っていない外部の人なら、いろんな意味でインタビューしやすい。でも、日常的な関係があるから直接聞かないほうがいいこともあれば、聞いたところで本音が返ってこないこともたくさんある。関係性次第とも言える。

ついでに余談を書くと、この鼎談で佐内さんが言う「不適切にもほどがある」実践記録とは、子どもたちと教師の濃密な関わりを紡ぐような実践なのだろう。例えば本誌No.30で石川さんが紹介していた笠原紀久恵『友がいて ぼくがある』は、一人の子を中心にして学級の長期的なエピソードを描いた本で、それにあたる気がする。たしかに、今の時代ではコンプライアンス的に書けそうもない。しかしこの本、石川さんは非常に肯定的に書いていたけど、僕はこの書き手の物語化への欲望を強く感じて、ちょっと受け入れ難かった。このへんは石川さんと僕との感性の違いなのかもしれないなあ。

複数でやったら面白そう、ストップモーション方式

パート2の授業記録は、「揃わない前提」ということで、幼保や特別支援学校も含めた合計10本。やはり一番数が多いストップモーション方式の授業記録がまずは目につく。これは、「事実」と「解説・解釈」を分けて書く、スポーツの実況中継と解説のような記録の方法である(詳しくは本誌No.30『授業記録を読もう!書こう!』を参照)。

この記録は、わかりやすくはあるのだが、ただし、もちろんそこで描かれた「事実」とは、事実そのままではなく、記録者の「目」を通したものにすぎない。僕は今学期この形式で授業記録を書いたのだが、「なぜ自分はこの現象を事実として切り取るのか(他は切り取らないのか)」というメタな意識が働いてしまって、難しさも感じた方式だ。本来なら、その「切り取り方」に記録者の問題意識やクセ(個性)が出て、それこそが大事なところだろうから。だから今号を読んでいても、「この書き手が「事実」として切り取らなかったことはなにか」という問いが頭に浮かんだ。同じ授業を、複数の記録者がストップモーション方式で書いたら、「事実」が立体的に浮かび上がって面白そうだ。

「主観」を全面に出した記録のとり方

記録として一番おもしろかったのは、井久保大介「6年2組は揃わない 横浜市立旭小学校 玉置哲也学級に入ってみた」である。まず前提として授業が面白いのだが、それ以上に観察者がとにかく主観丸出しなのが面白い。どう「客観」的に書こうとしても無理でしょ、という開き直りのような記録の取り方

一般的に、記録者が授業者の実践史や背景を知っていればいるほど、そうした知識が読者との情報差となって伝達を難しくさせるが、お二人はこれまで関わりはあったにせよ、初対面だったようだ。それがまた、読み手も(井久保さん同様に)初めてこの教室に入って玉置先生に会った感覚にさせてくれて、読み物としてのよみやすさが圧倒的だった。また、常に自分の感覚を思い起こしたり、わからないことを「わからない」と書く感覚も、とても好感を持って読んだ。

佐藤由佳「村上聡恵さんの教室を訪ねて 「単元内自由進度学習」の実践に学ぶ」は、かつて風越の同僚で僕も一緒に学年を組んだことのあるむーちゃんこと、村上さんの授業記録。僕としてはむーちゃんが同僚と楽しそうに授業を作っているだけで読んで嬉しくなってしまうのだが、記録の方法としては、佐藤さんの教室の見取り図のイラスト(p40)がめちゃくちゃ雄弁なのに驚いた。この実践の場合だけでなく、どの授業記録にもイラストをつけてほしいな、と思ったくらい。イラストは、地図と同じように「現実の風景の抽象化・意味化」であり、何を意味ある環境として記録者が切り取ったのかにも、ストップモーション方式と同様に記録者の主観が出る。そういう意味で、イラストは写真よりも雄弁でいい(本記事の場合、写真の許諾がとれなかったとか、別の理由がある可能性もあるけれど)。

さて、ここまでは記録の取り方について書いたけど、一方で、記録の面白さが授業自体の面白さや授業者自身の魅力と無縁でいられるはずもない(特に商業誌ではその傾向が強まるだろう)。色々な記録の中で、このひとの授業を見てみたいなと思ったのは、佐内信之「揃わない前提の生徒たちが癒やされる「ケア」としての学び」で取材された伊藤晃一さん。定時制高校の国語教員であり『授業づくりをまなびほぐす』の著者でもあるが、この本がAmazonにも近隣の図書館にもなくて、実践の具体を知る機会が少なかったので、ここで読めて嬉しかった。

伊藤さんの「学びにおける傷つきは、学びによってしか癒やすことができない」や「教室に一体感が出ちゃったときこど、それに乗れない生徒に配慮する必要がある」などの言葉(p127)も、大事にしたい言葉だ。他にも、井久保さんが取材した玉置さんの「この子にどうしよう、あの子にどうしようと思ってるんじゃなくて、その子がその子なりに普通にいることができれば」(p37)や、藤原友和さんの「遊んでもいいとは思ってるしね。だって教科書の内容をやっているのだから、自分ごとになるわけじゃないんで」(p81)など、さすがの教師たちというか、線を引いた実践者の言葉は少なくない。

 

授業記録=同僚とのコミュニケーションツール?

すべての実践やその記録にふれることはできないけど、最後に、色々と読んだ中で、現段階の僕にとっての授業記録観を書いておく。今号のように、商業誌で、限られた紙面で授業記録を書くことは、単に授業を記録するだけでない、色々な制約がある。限られたページ数の中で、背景情報を含めて読み手に伝えないといけない。記録対象として「選ばれた」書き手への配慮も人間なら当然生まれるし、また、編集部より与えられたお題(今号で言えば「揃わない前提の授業」)が書き手の意識に作用することもあるだろう。いちいち例はあげないが、本書はそういう様々な制約の影響を感じた号でもあった。でもまあ、これは出版物である以上仕方ないことで、書き手の力量を云々するものではない。

幸い(?)、商業誌での記録を依頼されず、そういう条件がなければ、長さや読者層をはじめとする色々な要素について考えることなく、自分なりに記録がとれる。この記録の取り方は、記録をとった後に授業者との会話のためのものだ。僕はこの学期に三回同僚の授業記録をとったのだが、記録を印刷して授業者と一緒に読んであーだこーだ言う時間は、とても良かった。僕の目から見た時の授業者のふるまい、子どもの動き。授業者のその時の意図(厳密に言えば、「事後的に構成された、授業者が「その時の意図」として聞き手と共有したがっているもの」)。それらを取り扱う時間が大事だと思う。

授業者が僕の記録を読んで「自覚はなかったけどたしかに!」みたいなことに思い当たることもあれば、僕がその授業者が何を大切にしたいのかを聞いて納得することもある。特に、その人の信念に触れられたときは嬉しい。ちょっと批判的な提案も、公開されないクローズドな場であれば受け止めてもらいやすくなる。僕は雑談ができない性分だし仕事以外の面白みもない人間なので、こういう形でストレートに同僚の理解を深められるのは、とてもありがたい。今の僕にとって、授業記録は「同僚とのコミュニケーションツール」というのが、正直な表現だ。

とまあ、授業記録について考えるいい機会をもらったな。夏休み明けからも、定期的に、一月に一本くらいは授業記録を書いていくつもり。それは間違いなく自分にプラスになるから、頑張っていこう!

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