ざっくりまとめると、「対話型美術鑑賞」について知りたいなら、必ず読むべき一冊。「対話による鑑賞完全講座」という副題は伊達ではなかった。本当に、著者の気合の入った本である。そして、意外なことに?国語の教師にもお薦め。
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本の構成は大きく分けて2部。前半の第一部では対話型美術鑑賞の理念や歴史について説明し、第二部では具体的にどう対話をファシリテートするのかという点が、かなり丁寧に書かれている。
僕自身が強く興味を持ったのは第一部。対話型美術館賞っていうとわりと最近出てきたという印象があるのだけど、それが単なる知識不足の誤解だということがよくわかった。教育理念としては、かなり以前からあったものなのだね。
また、後半の話は、すでにこういう話に馴染みのある人にとってはちょっとしつこいくらいなのだけど、でも、初めて対話型美術鑑賞に(あるいは、授業中に何らかの対話活動に)挑戦するという教師にとっては、かなり良質のガイドラインになるはずだ。僕がやはりいい本だと思っている、エリン・オリバー・キーンの『理解するってどういうこと?』を思い出した、と書いたら褒めすぎかな?
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さてこの本、僕は下のエントリで書いたように「大人のブッククラブ」で読んだ。読んでよかったと思う。なぜなら、以前に同じ著者の本『モナリザは怒っている!?』を読んだ時に抱いていた「対話型美術鑑賞」への印象が、かなり変わったから。
次のエントリで書いたように、僕は以前、対話型美術鑑賞にはけっこうマイナスの印象を抱いていたのだが、今回の本はそんなことがなかった。別に知識を全く教えないというわけでもなく、単に好き勝手言うというのは僕の誤解だったことがわかったし、何より、『風神雷神は〜』の中で開陳されている上野さんの教育観に、共感するところが多かったからだ。もしかして僕の教育観が前と比べてかなり変わってきたということなのかもしれない。
たとえば、本の「結びにかえて」のこんな箇所に、僕は強く共感している。
俯瞰して捉えれば対話による美術鑑賞は通過点である。学校教育それ自体も人の一生からとらえれば通過点に過ぎない。学習を通して培われた力が、その後の生徒の人生でどのような役割を果たすのかという視点を忘れてはならない。
作品の意味をいかに生成するか、どれほど深く読み取るかというような目先の目標に安住していては、何人もの生徒を必ず落ちこぼれにしてしまう。作品にばかり目が行きがちで生徒に目が届いていないようでは、対話による美術鑑賞とはいえない。一人ひとりの鑑賞のあり方を見つめながら、個々の価値形成と集団の意味生成を目指してほしい。どの子もいずれ市民となり、ひとりで作品の前に佇むのだから。
これは、そのまま「対話による美術鑑賞」を「教室の中での小説読解」に置き換えても通じる話ではないだろうか。小説を「深く」読むことが国語の授業の目的ではない。その経験が、その後の生徒の人生でどんな役割を果たすのかを考えて、作品よりも生徒を中心に考える必要がある….。これは、ライティング・ワークショップの「作品ではなく書き手を育てる」考え方とも共通する視点だ。
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この本の考え方に賛成するのであれ、違うのであれ、対話型美術鑑賞に関心のある人は当然のこと、小説の読解や解釈がどういうことか考えたい人にも、お薦めしたい本だ。ぜひ読んでみてほしい。