[読書]ライブ講義・質的研究とは何か(アドバンス編)

今日のエントリは、昨日読み終えたこちらのベーシック編の続き。

 

[読書]ライブ講義・質的研究とは何か(ベーシック編)

2015.02.06
土曜日でお休みだったので、午前中にアドバンス編を一気呵成に読み終えました。

今回はアドバンス編ということで、前半はベーシック編の流れを受けて、研究発表や論文などのアウトプットの作法について。そして、後半に質的研究法を原理的にどう基礎づけていくか、科学性をどのように満たしていくかという議論が展開されていく(第22回&第23回)。
 

ここがこの本の一番面白いところでもあるんだけど、同時に自分にとってはちょっと難しいところでもあった。主旨はなんとなくわかるんだけど、具体例や実感をともなってというレベルではない。そもそも、「異なる認識論的立場での議論を可能にするために、実体的概念はさておき、あくまで方法概念としての「現象」から出発しましょう」っていう発想、「おお、そんな手が!」と思う一方で、真理の探究をしてる人たちからしたらなんだかちょっとズルいような….(^_^;) いやまあ、「根源的な真理があるはずだというのも主張者の関心に基づいたひとつの認識論的立場で、他の認識論に対してメタな立場にはたてないでしょ」と言われたら、それはそうなんだけど。

ただ、(まだきちんとわからない点もあるのだけど、)質的研究の妥当性をめぐる議論って、ちょっと小説の解釈の妥当性をめぐる議論と似ている点もあって、そこも面白いなと思った。この人の考え方(客観主義と社会的構築主義の間で議論を可能にするための超メタ理論をつくる)や、その結果できた理論であるSCQRM(構造構成的質的研究法)を、たとえば「小説の解釈に正解はあるのか?それとも読者の数だけ解釈があるのか?」という議論に援用するとどうなるだろう。 ちょっと気になる話題だ。

こうやって色々な問題に汎用できそうな点で、著者の西條さん自身が語っているとおり、SCQRMというのは研究のOSなんだろう。そして、このOSの上でなら、たしかに質的研究をうまく走らせることができそうだ。大切なのは関心に照らし合わせての研究方法の妥当性であって、サンプルの数の多少は本質的問題ではないこととか、自然科学的な意味での科学の定義に囚われなくても科学性が担保できることなど、ベーシック編/アドバンス編を通じてなるほどと思うことは多々あった。

特に、僕のような現場の教員にとって、「教室の様子を記述すること」と「科学であること」を両立させるのは難しいと思っていたし、仮説検証型の対照実験をともなう研究には、心理的にもかなり抵抗があった。だって、ある授業法が良いと思っていながら比較のために統制群つくったら、教師としてはどうかと思うもの。将来の多数の子どもの利益のために目の前の少数の子どもを犠牲にしていい理屈はない。英語圏の論文だとそこを割り切っているのもけっこうあるけど、僕は割り切るつもりはない。でもその点、仮説生成の方法としての質的研究なら、心理的な抵抗感は少ない。

この本の視点からの質的研究の関連文献としては、次の本を読むと良さそう。特に木下の本についてはよく引用されていた。





ところで著者の西條さん、まだお若いようだけどすっごい頭が切れる人なんだろうな、どんな人なんだろう……と思ってググったら、「ふんばろう東日本支援プロジェクト」の代表で、この本の著者だったんですか。これ、話題になった本ですよね。ほぼ日にもインタビュー記事があった。読んでみよう。




 
 

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