教育実習終了。自分の身体感覚や国語の授業についてなど、学ぶことの多い3週間でした。

金曜日で教育実習が終わりました。ここ2週間くらいは教育実習と『イン・ザ・ミドル』翻訳の校正の影響で、睡眠時間が確保できない日々。ブログの更新どころではなく、正直、まためまいで倒れるんじゃないかと思ったけど、なんとか無事に乗り切って良かったです(土日倒れてますけど)。今日は教育実習の感想を少し。

目次

学ぶところの多かった教育実習

教育実習については、「大変だけど楽しかった」なのか、「楽しかったけど大変だった」のか、どちらで表現すればいいのかいつも迷う。実習生さんの対応には時間がかかるので、夜9時以降の帰宅が増える。家族と夕食は食べられないし、体力的にも厳しく、この期間は読書も全くできず、こういう帰宅時間が日常になってる先生たちが勉強しないのも当然だよな…と思ってしまった。

そういうことを別にすれば、今回の教育実習もとても勉強になった。今回の実習生さんは、大学院で哲学を専攻する、物静かによく考えるタイプの方。性格的にも繊細で心配りのできる人。つまり、僕と違うところの多いタイプなので、僕が好きなことが彼にはそうでなかったり、その逆があったりと、それが非常に面白かった。実習期間中の彼の授業や僕の授業後のリフレクションは、これまでの実習生よりもずっと長い時間になったのだけど、それも彼との話が面白かったというのもある。

教師の「心地よさ」が授業に与える影響

中でも改めて学んだのは、教師個人の感じる身体的な「心地よさ」が、授業にも影響を与えるということ。実習生さんは物静かに考え、考える時もじっと腕組みをするタイプ。手を動かしたり、口を動かしたりしない。だから、授業でも本来は皆が静かに教師の話を聞く一斉授業スタイルが彼の好みで、板書も本質的にはあまり好きではなさそうだった(彼自身が考える作業の中に、書くことが含まれないからだろう)。

一方の僕は、実習生さんの見立てによると、いつも忙しそうで遊びの時間がなく、考える時も手や体を動かしている。僕の授業では教師が話して生徒がじっと聞く時間が比較的少ないのだけど、それは授業方法云々の前に、僕自身の身体的な心地よさが影響しているのではないか、と思わされた。環境的にもガヤガヤやっている感じが結構好きなのだけど、そんな僕のグループワーク中心の中学生の授業を見た彼は、「僕にはこの授業は辛いです。でも、そうでない生徒が多かったですね」という趣旨のことを語っていた。

この時、彼が「僕にはこの授業は辛いです」とみとめてくれたのが新鮮だった。見学者の人って、そういうこと言ってくれないし(笑)。ああ、やっぱり誰にもあう授業のやり方はないし、教師の持つ感覚的な「心地よさ」に合わない生徒は、どこにでもいる。本当はそういう自分の身体的な「心地よさ」のバイアスを自覚して、それを目の前の生徒に応じて調整しないといけないんだろうな、と思う。石川さんに授業を見に来てもらった時にも思ったけど、自分自身の感覚について、もう少し意識を働かせた方が良いのかもしれない。

リーディング・ワークショップ実施中。渡邉久暢さん、石川晋さんに授業を見てもらう

2018.05.17

授業を作る時には、良くも悪くも持ってしまっている自分のバイアスに向き合い、これを生かしながら、付き合っていかないといけない。その中で、感覚の幅を広げていくことも大事だろう。おそらく身体的には「教師が静かに物語る一斉授業」が心地よい実習生さんは、途中でグループワークを組み入れ、それによって授業を変えるチャレンジをした。僕も同じように、時には苦手なことにもチャレンジをして、自分の感覚の幅を広げなくてはいけないだろう。

同時に、授業を見るときも、そういう教師個人の持つ文脈を切り取って良し悪しを論じることなど、本当はできないのだろう。フィードバックをするならなおさら、その授業者の身体的な心地よさに共鳴して授業を見ないといけない。

学校で国語を教えるということ

今回の実習生さんの授業教材は、野矢茂樹『哲学・航海日誌2』に収められた「解釈かゲームか」という文章だった。言語によるコミュニケーションを根元的解釈の応酬というモデルで捉えるデイヴィドソンの言語観に対して、それでは捉えきれない言語の規範的側面を説明するウィトゲンシュタインの言語ゲーム・モデルを提示する文章である。

さすがに哲学専攻の院生さんだけあって、言語哲学の文章の読みについてはむしろ僕の方が実習生さんに教わることが多かった。そして、教材をめぐる彼との会話の中で一番印象深い話題をあげると、学校で国語を教えることが、原理的に特定の言語ゲームを「規範」として生徒に押し付けている、ということだった。

そもそも「国語」自体が規範的な存在であることはよく言われることだ。そして、最近の僕の関心である「なぜ高校の現代文で(生徒の日常の読書と乖離した)評論を教えるのか」をとってみても、高校の現代文の授業とは、

  1. 主にアカデミズムの世界で生産される言語ゲームへの参加を生徒に強制する
  2. 大学受験という装置を権力の源泉としてその強制を行う
  3. その言語ゲームへの適応度合いに応じて、生徒を階層化する

という機能を、現実的に果たしているのである。

共同体が個人にかけるこのような圧力について、野矢茂樹さんの「解釈かゲームか」では、

こうした圧力を逆手にとるためにも、われわれはそこから目をそらしてはならないのである。

と述べられているのだけど、例えば高校現代文の授業における圧力を「逆手にとる」とはどういうことなのか。そして、生徒がこの圧力を「逆手にとる」力を身につけることを、圧力をかける側の尖兵である僕たち国語教師が手伝うことはできるのだろうか。教材研究の時に、こういう議論を実習生さんとしていた。これは、ずっと持ち続けなくてはいけない問いだと思う。

急遽、センター小説の授業をすることに…

実習生さんの問題提起を受けて、6月後半の僕の授業では、急遽、センター試験の小説の問題を扱うことにした。センター小説とはどういう言語規則を持つ言語ゲームなのか。それは、日常の僕たちの「読む行為」と何が異なるのか。僕たちがこのセンター小説という言語ゲームを「逆手にとる」とは、何を意味するのか。そして、それはできるのか。生徒たちとそんな問題を考えてみたいと思う。普段はストレートな受験指導をしない僕なので、センター小説を正面から取り上げるのは初めて(10年以上前に前任の私立校ではやってたけど)。さて、どうなりますことやら…。

続きのエントリはこちら。

「小説を読む体験」と全く異なる「センター試験の小説を解く体験」。僕たちはどう向き合えば良いの?

2018.08.27

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4 件のコメント

  • 教師も実習生もこういう実習ができたらさぞ楽しいだろうなと思いました。いいですね。

  • 実習お疲れ様でした。常にどんなことからも学ぶ姿勢をお持ちのあすこまさんに、倣わなければなあと日々思っております。

    • 本当にそうしたいなあと思うのですが、まだまだですねえ。そのためにはやっぱり十分なお休みが欲しいです(笑)