「作家の時間」「読書家の時間」で大事なのは、作家ノート、仲間、そして授業コマ数….。評価カンファランスでの発見から②

今日は昨日のエントリに続いて、評価カンファランスでの発見その2。昨日のエントリでは「書き手の意図と授業者の意図が衝突するとき」という観点でまとめたけど、今回のエントリをあえてまとめるなら「作家の時間・読書家の時間を充実させるのに必要なもの」かな。つらつらと書いていこう。

書き手の意図と授業者の意図が衝突するとき。「評価カンファランス」での発見から①

2022.03.05
写真は、諏訪富士とも呼ばれる蓼科山。2月に北横岳の山頂から撮った写真だけれど、なだらかな広い山頂に白い雪がかかっている姿がなんとも優美だ。

目次

価値がある、紙の「作家ノート」の役割

後期(小学校3年以上)では全員がChromebookを使う風越学園では、作家の時間の作品もパソコンを使う人が圧倒的に多い。しかし、ぼくはここにきて「紙のノート派」的色彩を強めている。下記エントリでも書いたように、「考えること」と「書くこと」をいったん切り離して、「手で考える場、実験する場、遊ぶ場」としての手書きの作家ノートがあるほうが、認知的負荷が軽くなると考えるからだ。

作家ノートはどう使われているの?ある生徒の場合。

2021.04.04

Chromebookで書く時も、紙の「作家ノート」は役に立つのか?

2020.10.10
作家ノートに限らず、紙メディアの特性がデジタルメディアに簡単に置き換えられないことへの確信は、柴田博仁・大村賢悟『ペーパーレス時代の紙の価値を知る 読み書きメディアの認知科学』や、メルリアン・ウルフ『デジタルで読む脳×紙の本で読む脳』、バトラー後藤裕子『デジタルで変わる子どもたち 学習・言語能力の現在と未来』などを読んで、ほぼ確信に変わっている。紙のもつ触覚フィードバックはとても大きく、それも含めた紙メディアと人間との対話が、理解度などにも大きく影響するのである。

…という思いで子どもたちにも作家ノートの利用を強く勧めている。ただ、今年は手応えとしてはよくなかった。PCでいきなり書く癖がすでに去年までについていたこともあった。また、作家ノートの利用を勧めても、そもそも面倒臭がってノートを持ってこない、なくす、忘れる…みたいな子も多くて、指導をしたくてもできない状況もあったのである。特に3学期はコロナで授業時間が週2コマと減ったこともあり、ほとんど指導できなかった。

ただ、評価カンファランスでは、子どもたちの口から作家ノートの効用について語る言葉も意外に多く出ていて、それがけっこううれしかったのも事実だ。

  • ノートにイラストが描けるのはいい。PCだと自由にイラストが描けないのでイメージがふくらませにくい。
  • 長い作品を書くとしたら、作家ノートを使ったほうがいいな。そのほうが書きやすい。作家ノートにまとめてあるから。作家ノートは、最初にまとめておくためのノート。
  • 昔は一発書きでやっていて作家ノートはいらないと思っていたけど、よく考えてみると、細かい設定を思いついたりしておけば、ノートにまとめておけるところがいい。
  • ドキュメントよりも作家ノートを使ったほうがよかったことに気づいた。その時の書きたいってことが、蛍光ペンで引いたりという工夫ができた。これとこれを合体しようというのが、紙をめくっていたらやりやすい。
  • 作家ノートとパソコンの使い分けを意識的にするようになった。前は全部パソコンですませたけど、あすこまさんがゴリ押ししたのもあって使ってみたら使いやすかった。書き始めが作家ノートにした。
  • 作家ノートを使ってみて、一気にパソコンで書き始めるよりは最初に構想をたててからやるほうがやりやすいなと感じた。

こういうコメントに接すると、「面倒くさい」の声に負けずに、粘り強く作家ノートの価値を伝えていかないと、と思う。自己管理がなかなか難しいので、本来のノートの利用趣旨とは異なるけど、毎回こちらで預かってもいいかもしれない。『新作文宣言』にもあったけれど、表現の現場とは、メモ書き=作家ノートにこそ存在するのである。

[読書]〈表現の現場〉は書くプロセスにあり!梅田卓夫・清水良典・服部左右一・松川由博『新作文宣言』

2022.01.08

なお、上記の子どもたちの発言では、書く前に構想を練る場としての作家ノートの役割が強調されているが、他にも「アイディアを書き溜める」「読むことと書くことをつなげる」など、作家ノートには様々な可能性があるはずだ。僕にはまだまだその可能性が引き出せていない。いま、ラルフ・フレッチャーのA Writer’s Notebookを読み始めたこともあって、作家ノートについては新年度も重点を置いて考えていきたい。

子どもは友だちから多くを学ぶ

年度末の評価カンファランスで他にも実感したのは、やはり子どもは大人よりも子ども同士から多くを学ぶという単純な事実だ(もう少し一般化して、人間は年齢や立場が近い者から多くを学ぶ、と言い換えてもいいのかもしれない)。評価カンファランスの中でも、他のクラスメートの影響をあげる子が何名かいた。たとえば、風越の6年生女子にはもともと読書好きの子が少なくなかったのだが、彼女たちは、お互いのおすすめでどんどん読み、次第に本の幅を広げていった。夏前にはペニー・ジョエルソン『秘密をもてないわたし』や梨屋アリエ『きみの存在を意識する』が流行したし、秋以降は『ツナグ』『かがみの孤城』をきっかけに、辻村深月を読む子が増えた。西尾維新の掟上今日子シリーズも、知念実希人のミステリも、主に女子たちのクチコミで広まった。僕は特別なことはしていない。時々、彼女たちの誰かにおすすめ本を紹介すると、それがしばらく後には他の子も読んでいる。逆に、こちらが「あの本がは流行しているから読んでみようかな」という感じだった。

こういう「友達同士のおすすめ」の強力なところは、ちょっとした難易度の差も超えて読めてしまうところだろう。文字の小さい文庫本や分厚い単行本には苦手意識があったはずの子が、友だちに勧められると読めてしまう。これは、教師のおすすめではなかなか起きにくいことだ。

読むだけでなく書くほうでも、彼女たちはお互いに良い影響を与えていたと思う。誰かが自分の作った俳句をもとに物語を書けば、他の子もやってみる。「小説家になろうプロジェクト」をたちあげて、授業外でも作品を書き、お互いに読み合う子たちがいる。一緒に共同作品を書いて楽しむ子もいる。一人で書かないといけない授業では作品を出せなくても、プライベートでは友だちと共同作品を書いていた子もいた。ある女子の「あこがれの作家」が同じ学年の別の女子だったりもした。こういう姿を見ると、大人のできることはほんのわずかなことでしかないな、と思う。友だち同士が勝手に本を読みあい、作品を書いて、日常の中で読み書きを楽しんでいる

どうしたら「読み書き共同体」を作れるか?

評価カンファランスでこういう姿を聞けば聞くほど、うれしいと同時に、こうした「読み書き共同体」が6年生を中心とした女子の間にとどまってしまって、男女の壁を超えて広まらなかったことが残念にも思う。今年の僕の授業では、日々の取り組みにも、力が伸びた実感でも、明確に男女差があった。もともと女子に読書好きの子が多かったのが一番の要因かもしれないが、読み書き共同体を男女の壁を超えて作れなかったのは、反省点だった。それができるには、まず、お互いが安心して関わり合えないといけない。そこが今年は難しかったな。力不足を感じた。

不十分なプロセス・アプローチ…

最後に、評価カンファランスを通じてあらためて感じた「コマ数」の必要性について書いておこう。もともと時間割がゆるやかな風越では、教科ごとに時間割を区切ることに対して批判的な人もある。でも、僕は国語教師としてしっかりコマ数を確保してほしい派だ。今年度の5・6年生は、国語は週5コマでスタートして、秋から週4コマに減り、3学期はコロナで午前中のみ登校になったこともあって、週2コマになった。正直、これは苦しかった。やはりというか、当たり前のことだが、力をつけるには学校という場で授業時間が確保されていることは重要である。これだけコマ数が少ないと、学校では人が集まらないとできない「共有」や「ミニレッスン」にしぼり、実際に書いたり読んだり、個別にできることは空き時間や家で自分で、ということになってしまう。それでは「書いた作文にコメントをする」添削指導とやっていることが全く同じで、書く途中のプロセスが全く見えず、そこをサポートすることもできない。プロセス・アプローチの良さが全く活かされていないのだ。

「書ける子のチャレンジ」に関われず…

とりわけ今回後悔しているのが、力のある子のチャレンジに関われなかったこと。限られた授業時間では、どうしても「書けない子」のサポートに意識が向いてしまう。しかし、「書ける子」にはサポートがいらないかというと、そんなことはまったくない。むしろ、「書ける子」ほど「読める子」でもあり、日頃接している文章のレベルやチャレンジのレベルも高い。前のエントリのCさんのように、「自分が読んでいる文章」と「自分が書いている文章」のギャップに苦しむこともある。

今回はこんなことがあった。普通、小学校高学年や中学生は自分に近い人物を語り手や主人公にして書く事が多い。そのほうが想像しやすいから当然だ。しかし、読書家のDさんは、「ある地方から別の地方に引っ越す一家」という、自分からは距離のある人物たちを主人公に、三人称視点で物語を書くことにチャレンジした。これは、この年齢の子には珍しいチャレンジで、Dさんが日ごろ読んでいる本を真似て「背伸び」しようとしたのである。でも、僕の側にこの「背伸び」をサポートする時間がなかった。途中のわずかなカンファランスで、Dさんは「自分が何をしたいのかわからなくなった」と苦しみ、僕はそれを助けることもできずに、Dさんはそれでも作品を書き上げたのだが、満足度の低い作品になってしまったのである。書き上げただけでたいしたものだと思うが、Dさんの中で、今回の体験がどう残って(あるいは残らないで)いくのだろう。それを思うと、この子のチャレンジをサポートできなかったことが悔やまれる。授業時間数があれば、きっとできたのに….。

減る読書量…

そして「作家の時間」以上に時間減のあおりを食らったのが「読書家の時間」だった。これは三学期にすでに感じていたが、評価カンファランスで「最近はあまり読んでない」と答えた子が多くて、確信したことだ。でもまあ、これは子どもの気持ちとしてはよくわかる。そもそも、日々の読書の効果は「見えない筋トレ」のようなものなので、子どもには意識しにくい。そして明確な課題もないので緊急性も低い。となれば、授業時数が減ると、その残りではどうしても締め切りのある作家の時間が優先されてしまう。もともと昨年秋に、週5コマ→4コマへのコマ数数減もあって「作家の時間」と「読書家の時間」を統合しようとした時に、すでに「読書家の時間と読書量の減少」が課題になっていた(下記エントリ参照)。でも結局これに対して有効な手を打てないまま、コロナによるさらなる授業数減でこの悪傾向を助長してしまったのが本当に悔やまれる。

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2021.10.31

結論:授業コマ数が確保されている大切さ

とまあ、コロナによる時間減で痛感したのは、読み書きの力を伸ばす上で、コマ数が確保されている大切さだった。作家の時間では、「書く」時間が授業時間できちんと確保されているからこそ、「作品」ではなく「人」にフォーカスして教師が書くプロセスに関われる。また、読書家の時間では、実際に「読む」時間が確保されているからこそ、同じく教師が関わることもできれば、読書習慣を保ち続けることもできる。いったん読書習慣が作れればあとは個人任せでも平気というのは、ただの幻想だろう。それは、あのアトウェルの学校の子でさえ、高校に行くと本を読まなくなってしまう事実や、一斉読書がなくなると読書量が減る毎年の読書調査を見れば明らかなことである(下記エントリ参照)。多くの子の読書習慣を保ち続けるには、学校という場でその習慣を支える時間が確保されることが重要なのである。

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作家ノート、読み書きの仲間、そして授業コマ数。今回のエントリでは、評価カンファランスの中で、「作家の時間」「読書家の時間」を充実させるのに必要だなと感じたいくつかの要素についてまとめて書いてみた。前回のエントリと並んで、来年度を考える参考にしていきたい。

 

 

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2 件のコメント

  • コマ数の確保、とても大切ですね。

    本校も、もともとGC(外国語・異文化理解)は週2なのですが、雪・コロナ・遠足・休日でどんどんコマが減り、生徒と学校で作品づくりやミニレッスンやカンファレンスをする十分な時間がなかなか確保できませんでした。自宅での作家活動、できる生徒はできるのですが、格差が大きくありました。

    • そのとおりですよね。自宅で書いておいでだと、単に「書ける子は書ける」に近くなってしまい、プロセス・アプローチになっていないなあと感じました。