松下佳代・川地亜弥子・森本和寿・石田智敬『ライティング教育の可能性』を読みました。従来、大学でのライティング教育というとアカデミック・ライティングに焦点があてられていることが多いけれど、「アカデミックとパーソナルを架橋する」という副題の通り、本書ではパーソナル・ライティング(トピック、思考、言語に個人性が強い文章)も視野に入れてライティング教育を考えているのが大きな特徴。そのため、高校までの初等・中等教育での作文教育とつながる話題も多く、作文教育に関心のある小中高教員にとっても、興味を持って読める本だと思います。
10/19(日)に本書のオンライン書評会があります!
でも、最初に告知。2週間後の10/19(日)午前9時半〜11時半、本書のオンライン書評会があります。神戸大学主催のイベントですが、決して研究者向けというわけでなく、広く開かれた場とのことなので、本書に興味を持った方は、ぜひこちらにもご参加ください。あすこまも、亘理陽一さん(中京大学)とともに、登壇者として著者の方とやりとりします。実はこのエントリも、その準備運動の一環として、本書を読み直すためのもの。そろそろ内容を考えなくてはいけないので…。
ライティング教育の未来を拓く ー『ライティング教育の可能性』をふまえて
https://www.h.kobe-u.ac.jp/ja/z/news_and_event/2025-10-19-1030
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「混ぜるな危険」の2つのライティング
さて、本書の大きな特徴は大学のライティング教育の文脈で、アカデミック・ライティングだけでなくパーソナル・ライティングもとりあげていること。第一部「ライティング教育の俯瞰図」で、アメリカを中心にしたアカデミック・ライティングとパーソナル・ライティングの歴史が語られており、前提の知識として役に立つ。個人的には、このへんは、ピーター・エルボウの『自分の「声」で書く技術』(Writing without Teachers)でのパーソナル・ライティングが、アカデミック・ライティングと異なる思想的基盤を持つものとして、アメリカの大学教育で立ち上がってきたことも思い起こしながら読んだ(下記リンクを参照)。
で、この第一章で、すでに本書を貫く重要な問いは出されているのだ。それは、アカデミック・ライティングとパーソナル・ライティングという「『混ぜるな危険』とみなされる両者を、しかし教育的文脈においてどのように均衡させるか」という問い。サブタイトルの「架橋」にもつながるこの問いが、本書でどのように議論され、答えられているのか。それがこの本の「読みどころ」の一つになるはずだ。しかし、この問いにすぐさま答えが出されることはなく、本書はアカデミック・ライティングを取り扱う第二部とパーソナル・ライティングを取り扱う第三部へと展開する。
ルーブリックを飼い慣らす…必要はある?
アカデミック・ライティングを取り扱う第二部は、アメリカやフランス(+中国)のライティング教育が説明される2・3章と、ルーブリック論争が扱われる4・5章に大別される。前者は渡邉雅子さんの議論も引用しつつなので、『論理的思考とは何か』を読んだ後だとどことなく既視感があるのは仕方のないところ(下記エントリ参照)。でも、中国の「読書筆記」は面白そうだな。
ルーブリックを扱う第4章・5章は、自分が基本的に反ルーブリック派ということもあって、第4章のルーブリック批判、とりわけ「ルーブリックがハックされる」現象については「まさに!」状態だった。また、より良いライティング実践が、実践共同体の中での批評や鑑識眼の共有を通して遂行されるという指摘にも、美術や音楽の評価にヒントを探す姿勢にも共感しながら読んだ。逆に、第5章の「ルーブリックを飼いならす」提案には、「そこまでして飼い慣らさなくても、使わなければいいのでは…」という思いがどうしても出てしまう。どうも自分は、10年くらい前からルーブリックに批判的なので、考え方が偏っていていけない。ここはまた読み直す必要がありそうだ。
パーソナル・ライティングと物語創作の距離
第三部は、逆にパーソナル・ライティングを扱う4つの章が含まれている。アメリカ、フランス、日本の大学、そして日本の生活綴り方の事例を扱った章だ。プロセス・ライティング、ライターズ・ブロック、書き手としての自己、オーサーシップなど、ライティング・ワークショップを実践する僕にとってなじみのある言葉や考え方が多くて、「大学でもこういうことが教えられているんだなあ」という共感を持って読んだ箇所だった。関連して言えば、小説家・ライターの寒竹さんが加わっての座談会やコラムも、とてもよかった。やはり、実際に書き手である人が教える場にいる意味は大きい。
ところで、本書で扱われているパーソナル・ライティングの事例はエッセイや日記が多い。一方で、いまの自分のライティング・ワークショップ実践は、フィクション(物語)の創作にかなり偏っている。これは、ジャンルを自由にすると多数の子供達が結果的に物語創作を選ぶのでそうなってしまうのだが、僕としては物語ならではの良さも感じている。その最大のものは、「自己を開示しなくて良い」ことだ。おそらく大学でパーソナル・ライティングを実践している著者たちも物語は書かせていない気がするので、そこはどう思うのか聞いてみたいところ。
今後の可能性広がる、教師教育におけるライティング
最後の第四部は、教師教育におけるライティングを扱った章。10年前にエクセター大学大学院で 「書き手としての教師」(teachers as writers )の論文を探した時には、日本の文献はほとんどなかったので、これも「いよいよフォーカスがあたってきたんだなあ」と読んで嬉しい。ここでは教員養成や現職教員の研修の場でのリフレクションとしての書くことに焦点があたっていて、その具体的な様子がわかる。
『授業づくりネットワーク』誌の特集を読んでもわかるように、日本にはもともと官製研修だけでなく民間の教育サークルでも、授業を書くことを通して教員が力量を形成してきた歴史がある。これから教師教育におけるライティングの研究がさかんになって、そういう蓄積にも光があたるといい。
授業のリクレクションだけでなく、書くことを教える教師が書くことに習熟する目的での「ライターズ・グループ」も、もっと学校現場で広がっていくといいな。僕も軽井沢町の研修で去年やったけど、同じメンバーで継続的に書いて集まるのもいいものだ。とにかく教師教育の分野でのライティング研究は、今後大きな可能性が広がっている気がする。今後、「教師が書くこと」への注目がますます高まってほしい。
「書くことの教育」を多面的にとらえる意欲作!
10年前くらい前まで、大学でのライティング教育といえば初年次教育のアカデミック・ライティング教育とほぼ同義だったのではないかと思う。高校までの書くことの教育のゴールが、最終的に大学のアカデミック・ライティングだけに収斂してしまうのを残念に思っていた僕としては、大学側がパーソナル・ライティングまで視野に入れて、書くことの教育を多面的にとらえようとしているのはとてもうれしい。それが結果として、大学のライティング教育を、初等教育・中等教育(中高)のライティング教育と架橋することにもなるはず。10/19(日)の書評会では、どんな話が展開されるんでしょうか。登壇者の一人として楽しみにしています!
ライティング教育の未来を拓く ー『ライティング教育の可能性』をふまえて
https://www.h.kobe-u.ac.jp/ja/z/news_and_event/2025-10-19-1030
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