[読書]一人一人が違って見える教室をつくる。安居總子・甲斐利恵子『中学校 国語授業づくりの基礎・基本』

あなたの授業づくりの基本はなんですか?」と問われて即答するのは難しい。その答えは自分の立ち位置の宣言でもあるからだ。つい、あれもこれも…と答えたくなる。先日、手持ちの「国語授業づくり」に関する本を何冊か読み直す機会があって、久しぶりにこちらの本を開いたところ、きっぱりと「それは子どもを知ることです」と書かれていて、その潔さに惹かれた。安居總子・甲斐利恵子編著『国語授業づくりの基礎・基本』。日本国語教育学会が監修する「シリーズ国語授業づくり」の一冊である。

安居先生が総論を、利恵子先生がその具体論を

著者のお一人、甲斐利恵子先生は、このブログでも何度も出てくる。僕が2018年9月から翌2019年3月にかけて(軽井沢風越学園に移る直前の時期に)、何度も教室を訪問させていただいた先生だ。それについてはこちらのリンク先から訪問記を見てほしい。

一人一人と関係を作って力を伸ばす教室。甲斐利恵子先生の授業見学記まとめ。

2019.03.30
どうでもいい話題だけど、このお二人に「先生」をつける呼称について…。僕がブログで他の人を「先生」と敬称をつけて呼ぶことは少ないはず。ただ、今回は「安居さん」「甲斐氏」などいくつか試してみたのだけど、しっくり来なかった。それで、個人のブログだし一番自然にそう呼びたい「先生」表記にした。安居先生に「先生」とつけたくなるのは、青国研の会合に出た時の凛としたお姿と厳しく温かい評言に触れて、こういう方を「先生」と呼ぶのだろうなと思ったから。利恵子先生は、僕にとっては教室で何度も学ばせていただいた、敬愛する文字どおりの「先生」だから。過去のブログ記事を見ても、ごく自然にこのお二人には「先生」をつけているなあ…。

君は君の歩幅で歩け。「青国研」の研究会にお邪魔してきました

2018.12.28

この本は、10ページ強の第一章「国語教師のプロフェッショナリズム」を安居先生が、そのあとのQ&A形式の第二章「国語授業づくりの基礎・基本」を利恵子先生が担当する構成で、全部で110ページほどの薄い本だ。ページ数的には、第二章の利恵子先生の執筆部分が主。位置付けとしては、授業づくりの総論を安居先生が、その具体的な姿を利恵子先生が書かれている。

「子どもを知る」とはどういうことか?

で、第二章は僕は実際に訪問した甲斐利恵子教室を思い出しながら読むのだけど、改めてすごいなあと思う。一切、誇張や嘘がない。本書での「基礎・基本」は、利恵子先生がしていること、少なくともしようとしていることそのままなのである。

本書ではまず授業づくりの基本を、専門的な知識や力ではなく「子どもを知ろうとする」姿勢に置く。しかもそれは「ただ単に、思いやりのある優しい子だというような、パターン化された捉え方」(p23)ではない。

自分の知らないことに出会った時にどう感じ、その後どういうふうに行動に移そうとするのか、難しい課題がある時にどんなふうに感じ、考え、どんなふうに向き合うのか、友達と目標を共有し、取り組むときはどんなふうにコミュニケーションをとろうとするのか….そういうふうに、子供の心の流れや、考え方の傾向、行動の行く先までも理解することによって、その子の学びをどうつくっていくかが見えてきます。つまり、どんな教材で、どんな手引きを使い、どんな言葉掛けをすればその子供たちが育つのかが見えてくるのです。(p23)

このレベルで子どもを知って初めて、子どもたちが育つための手立てが打てるのだ、という立場の表明である。僕自身は専門的知識(さえ怪しいのだけど)を武器にして教員になった人間で、このレベルでの「子ども理解」を国語教師の基本的な姿勢と言い切ることはまだできない。でも、この本を読めば、少なくとも利恵子先生がなぜそう考えているか、そして、その実現のために具体的な手立てをどう打っているかはわかる。

一人一人が違って見える教室

鍵になるのは、共通教材を用いた一斉授業の枠組みの中で(利恵子先生は通常の公立学校の先生である)、いかに子ども一人一人の姿が違って見えてくる課題を設定するか、ということだ。それなくして子どもを理解することはできないし、理解ができなければその子に適した手立てを打つこともできない。次に、その課題に取り組む導きになるような手引きを作る。まずは必ず自分でもその課題をやってみること。それから子どもたちがどんな風に問題に取り組むかを想像しながら手引きを作ること。さらに、実際に子どもが課題に取り組んでいるときには、机間指導をして、子どもたち一人一人と話をする。そこから得た情報を、生徒別の「手控え」に書いて、今後の指導に生かす。グループ発表や交流をする時にも、子どもたちの一人一人が豊かな材料を持つ状態を作り上げる…。

このようにして、枠組みは一斉授業でありながら、一人一人の姿を捉え、それに応じた指導をする授業ができていく。甲斐利恵子教室は、「一人一人が違って見える教室」なのだ。その中で、「手持ちの力だけで勝負させない」という利恵子先生の厳しくも温かい眼差しを注がれ、子どもたちは言葉の力を身につけて巣立っていく。

今回、改めて本書を読み直して、「敵わないなあ」という思いを新たにした。こういう言い方が適切かわからないけれど、レベルが違う。そして、甲斐利恵子教室の実践を読んで改めて安居先生担当の第一章を開き、プロフェッショナルとしての国語教師が備えるべき資質や態度についての宣言を読むと、「ちゃんとしなきゃ」という思いがますます強まる。

『国語授業づくりの基礎・基本』は、もともと、入門書として企画されたものだと思う。でも、僕のようにある程度経験を積み、形ばかりは授業ができるようになった人が読むと、頭をぶん殴られること請け合いだ。これは本当の新人さんが読む本ではなく、自分のような人が読む本では、という思いが頭をかすめる。同時に、もし国語教師としての出発点からこの認識で授業づくりを始めれば(「実践できれば」ではないにしても)、年月が経った時にその人の強力な武器になるだろう、とも思う。いずれにせよ、薄くて、「基礎・基本」と書いてあるくせに、目指す地点ははるかに遠い。そんな本である。

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