「書き手の視線で読み、読み手の視線で書く」をどう実現する? 一学期の授業ふりかえり。

先週の夏休みは特に何かに頑張るでもなく、ワクチン接種してNHKオンデマンドで昔の大河ドラマを見たり「映像の世紀」見たり、2回くらい近くの山に登ったり。わりとだらだら過ごしました。もうすぐ(風越は23日から!近隣の多くの公立学校は19日から!)始まる二学期の授業に向けて、そろそろエンジンかけなきゃ。というわけで、今回は一学期の「作家の時間」「読書家の時間」の振り返り。

晴れ予報の日に、朝4時に起きて北八ヶ岳の北横岳に登りに行ったのですが、悪天候で途中で頂上を諦めて帰ってきました。標高1700Mくらいまで降りてくると写真みたいに晴れてるんだけど、山の天気はわかりませんねえ…

今年、僕は小学5・6年生を受け持っている。45分授業×週5コマある授業週2回を「作家の時間」、週2回を「読書家の時間」、週1回は「ことばの時間」(漢字や文法の学習が中心だけど、他では学習ゲームをしたり、メタ言語意識を育てるアクティビティをしたりする時間)。「作家の時間」では物語とエッセイを、「読書家の時間」では個別自由読書を中心にして、6月にノンフィクション月間を行った。

今のところ手応えは正直「ぼちぼち」と言ったところ。個別事例はともかく、全体としては、まだ子どもたちがグッと学習に入ってメキメキ音を立てて伸びている感じではない。自分のやりたいことが子どもたちにうまく伝わっていない、あるいは(もしくはそれに加えて)、子どもたちのやりたいことに自分が合わせられていないのかな、とも思う。何しろ「やらなきゃいけないことをやる」より「やりたいことをやりたい」子達なので、お互いの視線を合わせる調整はいつも必要。とりわけ、漢字学習のように彼らの中にニーズがない学習は苦戦中。Chromebookを使っている彼らには、漢字を手書きで書く意味がわからないんだよね…。

目次

「作家の時間は作家の時間、読書家の時間は読書家の時間」

「作家の時間」「読書家の時間」での一番の問題意識は、書くことと読むことをどう繋げるか、ということ。もともと書くことと読むことは別の行為ではないし、前年度の実践を通じて「作家ノートや読書ノートを使って「書くこと」と「読むこと」を繋げられている生徒が力がつく」という手応えもあった。自分が好きな文章やその書き手に勝る教え手は世の中に存在しない。だから自分が文章を書くときに「この人のこんな書き方を真似してみよう」と思いながら書ける子や、本を読むときにも読みながら「あ、この表現いいな」などと思ったことを読書ノートに記録して自分が書くときに備えられる子。そういう子は力がつく。書き手の視線で読み、読み手の視線で書く。目指すはその状態だ。

だから、これまでも読むことと書くことを繋げることが大事だと思ったし、そのためのツールとして作家ノートや読書ノートの価値を言葉では伝えてきたつもり。でも、この夏に回収した作家ノートを見る限り、まだまだ全然伝わっていない。生徒の中では「作家の時間は作家の時間、読書家の時間は読書家の時間」という意識が強いのが現状で、「作家の時間だけど、参考になる本を読んでいます」という、前任校での実践ではよく見られた姿がほとんど見られない。この「分断」をまずはどうにかしたいな。

「書き手の視線で読み、読み手の視線で書く」には…?

「書き手の視線で読み、読み手の視線で書く」を実現するにはどんなことができるだろう。思いつきをいくつか挙げてみる。

作家ノートと読書ノートを統合する

現状では「作家ノート」と「読書ノート」を分けているのだけど、これが「作家」「読書家」を区別する意識を生んでいる可能性があるので、まずここに手をつけることにしたい。夏休み明けから、読書ノートを作家ノートに統合しようと思う。授業ごとに提出してもらう必要がある読書記録は、別にカードを作ることにする。

「ユニット」意識を強めたミニレッスンをする

現在も「作家の時間で物語を書くときは読書家の時間でも物語を読む」というように、ジャンルの重なりは意識している。これをさらに進めて、例えば作家&読書家を一つの「ユニット」として捉えて、「作家の時間でも読書家の時間でも共通する要素を柱にしてミニレッスンをする」こともやってみたい。

ただ、この「共通の要素」のレベル感が問題だ。「読点の打ち方」だと細かいし、書く方に寄り過ぎている。かといって「反応する」「推測する」だと少し漠然としすぎている。個人的には「視点」くらいのレベル感で、読む時には視点に注目して読み、書く時はそれを書くことに活かす、くらいがいいのかなと思う。

共通テキストを決める(?)

教える側の都合を考えれば、教科書であれ一冊の本であれ、共通テキストを決めた方が特定の要素は教えやすい。例えば「視点」を教えやすい教材は確かにある。僕も前任校では「共通テキストを使ってポイントを教えて、それから各自で書く」という実践をやっていた(例えば「羅生門」を扱っていくつかポイントを教えた後に物語を書いたり、「走れメロス」を「どうして速く走っているように感じるのか」という視点で分析してから「走れ〇〇」を書いたり)。

共通テキストを使うことにはこのようなメリットがある。一方で、その共通テキストが生徒全員のレベルや好みにあうことは決してないし、何よりも、子供の立場から言えば、与えられた作品ではなく、自分が好きな作品であればこそ、その「良さ」を分析して学ぼうという気にもなれる。こういう点を考えると、共通テキストではなく、生徒個々に異なる本で同じことができないか、という思いを捨てることはできない。これ、今後も迷って共通テキストを使ったり使わなかったりなのだろうな…。

「読んでから書く」流れを作る

共通テキストを使うかどうかは別として、読み書きの関連付けのためには、「参考作品を読む→書く」という流れは大事そうだ。アトウェルも、それぞれのジャンルの特徴を学ぶ作品を生徒が自分で読み、分析してから書くという流れを中心に授業を組み立てていた。僕もふだん意識していることではあるけれど、全てそうできているわけではない。今後、ますます意識しよう。

カンファランスで働きかける

僕が弱いのはカンファランスだろう。カンファランスの時に読みと書きの連携を自分自身があまり意識できていない。例えば読書家の時間のカンファランスで、他の作品との書き方の共通点を聞いたり、自分の書くものに取り入れるとしたら何ができそうか聞いたりするだけで、読みと書きを連携する子どもの意識は高まるはず。ここは自分の頑張りどころだ。

授業の名前を変える

訳書も出ているので仕方ない面があるとはいえ…writing workshopの訳語としての「作家の時間」、reading workshopの訳語としての「読書家の時間」というネーミングは、実はあまり良くないなと思っている。このネーミングだと「作家」と「読書家」がそれぞれ別人格のように感じられるからだ。「この時間は自分は作家(だから読まない)、この時間は読書家(だから書かない)」という間違ったメッセージを送りかねない。あと、余談だが日本語の「作家」は「書き手」よりかなり狭い概念で、「物語を書く人」という印象も与える言葉なので、その点でもあまり好きな訳語ではない。アトウェルは第三版ではreading & writing workshopと呼んでいたし、アメリカの実践ではliteracy whorlshopという言い方もあるけど、どんな言い方が適当なのだろう。

時間を統合する

アトウェルは90分授業の中で、リーディング・ワークショップとライティング・ワークショップを同時にやっていた。僕の場合は45分授業で別々だ。時間割の都合もあるから90分授業にするのは難しいかもしれないけど、例えば週合計4コマを生徒に預けて、自分でどのタイミングで読んだり書いたりするか選べないだろうか? いや、現時点の様子だと、ずっと本を読んで締め切り間際に書けばいいや、みたいになる危険もありそう。だとしたら、どういう条件が揃えば、そういう風に「選べる」状況になるのだろう。どうしたらそこに至れるのだろう。それを考える必要がある。

いくつか、思いつくままにざっと書いてみた。「作家の時間と読書家の時間の連携」、自分が実践者としてレベルアップするためにも、必要なこと。夏休み明け、今日書いたことを意識して頑張っていこう!

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