体験は同じ、感じ方は多様。KAIさんとあっきーのPA講座から考える授業設計。

月1回、軽井沢の中央公民館で開いているAdventure in the Classroom。風越のKAIさん(甲斐崎博史さん)とあっきー(木村彰宏さん)の豪華ダブルキャストで実施している、プロジェクト・アドベンチャーの講座だ。色々と面白いことは起きているのだが、週の中(木曜日)の講座のため、なかなかゆっくり書き留めることもできない(書いたのは初回の下記エントリくらい)。でも、ちょうど4月から始まって一年の半分である6回が終わったところで、簡単にふりかえっておこう。

プロジェクト・アドベンチャー連続講座の第1回開催!自分の発見や疑問をまとめてみた。

2023.04.30

目次

同じ体験でも、感じることは「人それぞれ」

ここ数回のこの講座では、アクティビティを経験したあとに「その時何を感じていたのか」を語り合う「体験の共有」という時間がある。これが面白い。当たり前の話だが、感じることが本当に人によってバラバラなのである。例えば、前回の講座では「アンクル・ホールド」という「紐のない10人11脚」的アクティビティがあった。僕は途中で攻略法の緒が見えた時に「あ、こうすればいけるのか」とゴールに向けて意識が高まったのだが、後で話を聴くと、なんと全く同じタイミングでやる気を失った人がいた。ひとまずはゴール達成を喜ぶ人もいれば、最初からあまりおもしろくなかった人、隣の人に気を配っていた人…本当に、同じ体験をしても、感じることは文字通り「人それぞれ」なのだ。

繰り返すが、当たり前といえば当たり前。しかし、それがこれほど面白いのは、僕がふだんその当たり前を意識できていないからだろう。だって、本人がそう話してくれるまで、アクティビティ中にはそういう感情は、声に出しては一切表出されない。だから、自分が「よし!」と思った時には他の人も同じように思っていると、つい思い込んでしまう。本当に他人が「見えていない」のだ。

自分の授業では何がおきているのだろう?

この「見えていなさ」に気づくと、自分の授業ではいったい何がおきているのだろう、と、ちょっとそらおそろしくなる。授業とはもともと目的的な時空間(何事かを学ぶという目的のもとに設定された時間・場所)だ。僕もそのような期待のメガネで子どもたちを見てしまうだけに、さらに子どもたちの姿は見えなくなる。でも、言葉や表情には出さなくとも、被体験者である子どもたちは、国語の授業に関係あることからないことまで、様々な感情を抱く。それは、僕たち授業者には知りようがない。もちろん、「見取りの達人」的な人ならある程度は可能だろうが、それも「ある程度」に限る。他者の内面をうかがうことなど、原理的に不可能なのだから。

子どもたちは、授業者である僕の授業設計や期待とは無関係に、授業体験から色々なことを感じ取る。彼らが何を感じ取るか、コントロールすることは不可能である。

「何を学ぶかは自由」という設計

その「当たり前」をあらためてふまえると、OBSの「体験は強制するが、そこから何を学ぶかは個人に委ねる」設計も、一個の思想というよりは「だってそういうものでしょ」という開き直り、悟り、あるいは諦念として見えてくる。実際、つきつめて考えれば、そうとしか言いようがない。

一方で、教育とは(少なくとも学校教育とは)一定の時間の制限の中で一定の内容を学ぶ目的のもとカリキュラムが編成されている。である以上、「同じ体験をしても得るものは違う」当たり前を前提とすると、目的が達成できなくなってしまう。学校では、少なくとも、共通の何かしらを全員に学んで貰わなければならない。一方では個の感じ方を尊重してそれに寄り添いつつも、同一のゴールに向かって進んでいく矛盾。だからだめだ、と言いたいのではない。そのアクロバティックな中途半端さこそが、学校教育の本領でもある。

自分の授業ではどうしよう?

僕個人に関して言えば、僕が関心を寄せる「ライティング・ワークショップ」や「リーディング・ワークショップ」は、いまの学校の標準に比べたら、比較的「何を学ぶか」に幅がある授業だ。特に今年は受け持ち児童の学力差も大きく、「同じことを学ぶ」のはどう考えても不可能。実際の教室でも、まずは書いて提出することが目的の子、文章の最後に句点を打つのが目的の子、類語辞典を使って表現を練り上げるのが目的の子、さまざまにいる。

であれば、そんな自分の教室で、もう一歩進めて「共通の体験をしても感じることは人それぞれ」を可視化したらどうなるのだろう。何が変わるのだろうか。

「ふりかえり」から「体験の共有」へ?

たとえば、「ふりかえり」(リフレクション)を変えてみたらどうだろうか。ふりかえりには様々なモデルがあるが(下記エントリを参照)、とどのつまりは「次、どう改善する?」という未来志向の行動変容をうながすものである。

リフレクションのモデルを分類する

2016.03.25

それゆえに、学校現場にふりかえりを適用すると先生向けの「変容します/しました」アピールの場となり、「かったるいアレ」となってしまう。

「振り返り」はなぜ「かったるいアレ」になるのか

2016.05.05

だとしたら、その未来志向の「ふりかえり」フォーマットをやめて、完全に「体験の共有」だけをしたらどうなるのだろう。今日の授業で何を学んだかも、次何をするかも捨てて、何を体験したか、その時どんな感情だっただけかを語る。

例えば、僕は今「作家の時間」の毎回の最後に「オーサーズ・トーク」というインタビューをやっているが、現状のオーサーズ・トークは「公開ふりかえり」に近い。僕もふりかえりのサイクルを意識して、最後には「いまは完成までのプロセスの全体を10とするとどれくらい?」「次の授業では何をするの?」などと聞いている。

そういう未来志向のフォーマットを捨てて、「今日どうだった?」「どう感じた?」だけを聞いてみたらどうだろう。今日の授業で何が起きたのかだけを共有するオーサーズ・トーク。全員の前でそんなこと正直に答えられない子も多いだろうし、やるなら、僕の目が届かないようなペアや小グループでやるべきだろうか。

やり方は考慮する必要があるが、「体験の共有」を聞きあうことを重ねたら、教室の雰囲気はまた少し変わりそうだ。もうちょっと、安心な場に近づくのかも。まだはっきりとはイメージできないけど、ちょっとやってみたいな、という気になっている。

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