「人は学びたくないのが当たり前」という前提に立ってみること。

Twitterに書いたことを、ここに補足しつつまとめてみる。「人は学びたくないのが当たり前」という前提に立ってみるのが大事ではないか、ということについて。

写真は我らが浅間山の山頂付近から見る外輪山の山々。10月初旬、念願のロングコースに挑戦し、黒斑山〜蛇骨岳〜仙人岳〜鋸岳の外輪山縦走を経て、前掛山の山頂に行きました!帰り道、下山してるはずなのに、黒斑山に登り返すのが辛かったけど、自分の足で踏破した外輪山を眺める風景は格別でした。

なんでもかんでも面白がっていられた幼少期を過ぎて、ある程度の自意識を持つようになると、学ぶことは必然的に「今の自分は知らない、できない、わからない」事実と対峙して、自己を否定される感覚をともなう。教室では、多くの場合にそれに他者との優劣や比較もともなう。その経験は本質的に辛いことだ。だから、「学ぶのは辛い」「人は学びたくないのが当たり前」くらいの気持ちでいる方が良いのかもしれない。

もちろん「学ぶのが楽しい」人たちも大勢いる。僕も学ぶのが楽しいタイプだ。でもそれは「全ての人にとって学びが本質的に楽しいものだから」ではない。その人たちが、小さな自己否定をできるほどに十分に自信があったり、過去に学ぶことで成功体験を積んでいて、今の自己否定の先の自己更新の見通しがあり、それに伴う喜びがあることを知っているからなのだと思う。僕自身も、とにかく色々と恵まれた人だったのだ。

だから、学ぶのが嫌いな人たちに、いくら学ぶ楽しさを訴えても、それだけではどうしようもない。大事なのは、学習に伴う「小さな自己否定」に向き合い、乗り越えるだけのエネルギーを、その人たちの内側に溜めていくこと。そのエネルギーが溜まって初めて、彼らは「学ぶのも楽しいよ」という呼びかけに応答し、一歩踏み出すことができる。

ということで、最近の僕は「人間はもともと学ぶのが好きなんですよ!」という類の言説は信じない方がいいのかも、と思っている。人は学びたくないのが当たり前、学ぶのは辛い、教室にいるだけで頑張ってる。そのくらいに思っていた方が、少なくとも寛容になれる。それは、自分が国語を学ぶ楽しさを体現する存在であろうとすることと、決して矛盾はしない。

余談その1。風越のカリキュラムの良さは、「長い休み時間」や「私をつくる時間」など、子どもたちが「エネルギーを貯める時間」がたっぷりあること。その良さをもっと生かさないといけない。(まあ、流れる時間はどの学校にも平等なので、風越ではその代わりにいわゆる学習の時間がとても少なくて、それはそれでめっちゃ悩ましいんですが….)。

余談その2。この話は、教員でも同じだ。新しい職場で自己を否定・更新するのにも、エネルギーがいる。そうでないと一歩踏み出せない。僕の場合、筑駒で鍛えてもらった教科への自信が、風越で学ぶエネルギーの源泉になっている。では、職場の同僚のエネルギー源はなんだろう。一人ひとり、違うはず。

 

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