港区立赤坂中学校の甲斐利恵子先生の授業見学も、残すところあと1回。1月後半から2月は、こちらの仕事や赤坂中の期末考査などで、3回の見学にとどまりました。その3回は「読書会」の授業。読書会というと、リーディング・ワークショップにおける「ブッククラブ」や、やや異なるけれどラファエルのブッククラブのイメージがある僕にとって、甲斐先生の読書会は、実に静かで、穏やかなものでした。
目次
甲斐先生の「読書会」
1月末から始まった読書会単元は、まずは谷川俊太郎「成人の日に」から。個人的には読書会というと本を一冊読んで語り合うイメージだったので(下記リンク参照)、「あ、本でなくとも読書会って言っていいんだ」というのがまず新鮮。この単元は、この詩の読書会から始まって、中3の定番教材「故郷」の読書会へと続いていきます。
受験期を迎えている中3の生徒たちに…
この授業を受けている中3生徒は、ちょうど受験のシーズン。それもあるのでしょう、この読書会では、いつもより甲斐先生の口調もゆったりと、しんみりとしています。何かを教えるというよりは、ゆったりした時間を過ごすことが目的の時間のようにも思えました。教えるという点では、放課後の志望校別の個別対策などもされているとのことで、この時間は受験期の生徒たちをゆったりと過ごさせる時間なのかな。
沈黙している時間も多い。いつも言葉の議論が交わされているのではなく、言葉にならない感情を、生徒が言葉で表現しようとするのを、じっと待っている時間も多い。一緒に見ていた見学者の方が「哲学対話のような、安心して沈黙のできる時間」と評していらしたけど、展開としてはとても地味な授業です。
授業にもライフヒストリーがある
あとでお話をうかがうと、この中3の授業は、甲斐先生も「胆に力が入っていない自然体」なのだそう。「安心している。もう、いいよねという感じ」とのこと。実は、以前の中3で同じく故郷を扱った時は、「卒論を書こう」と題して、問いを立ててレポートを書いていたこともあったそうなのですが、「それだとお勉強的だった」と振り返っておられました。「その時とは自分の気持ちが違う」とも。印象的だったのは、次のような言葉です。
(以前の)勉強からだんだん変わってきて、人間みたいなものになってきたのかな。レポートの書き方とか、問いの立て方とか、そういうのが大事だと思っていたんですよ、前は。それを卒業単元にしていたんですけど、最近は、多分年齢が、現場の時間がないと思っているせいかもしれないんだけど、勉強は今までやってきたからそれでいいでしょうって。あと解決できないことが世の中にはいっぱいあるけど、へこたれないでね、とか、そういう感じになってきました。
この甲斐先生の言葉を、今の僕はちゃんと消化はできていないなあ。レポートの書き方とか問いの立て方の方が大事じゃないかって思っている部分も、正直ある。自分が甲斐先生の年齢に近くなったら甲斐先生のように感じるのか、それともそこはやはり違うのか。それはわからないけれど、授業にも教師のライフヒストリーがあるのだなと思わされる瞬間でした。
授業の良し悪しを語るのは難しい…
この授業が「良い」授業なのかどうかは、僕にはわかりません。僕は甲斐先生を敬愛しているし、先生と生徒たちとの関わりを見ているから、ちょっとした生徒のつぶやきや沈黙にも、肯定的な文脈を見出してしまう。まして、こうやって甲斐先生の授業後のお話を聞くと、なるほどと胸を打つ言葉がたくさんある。
でも、この読書会だけをとったら、発言のあまり活発でない、「故郷」を読んでただ感想を交流するだけの授業と見る人もいるでしょう。実は、(この回の授業ではないのですが)甲斐先生の授業を見学されて「公立小学校の普通の授業と同じだった」という感想を抱いた方が実際にいらして、少しやりとりをしたこともありました。なるほど、確かにこれは「普通の授業」なのかもしれません。授業の良し悪しを語るのは、見る人の文脈にもよるので、軽々しくできないし、難しいことです。一方で、良し悪しを判断せずにそこで何が起きているのかを見ることができると良いのですが、僕の力ではそれもなかなか難しい…。
中学3年生の物語と、甲斐先生の物語
「故郷」の読書会では、子供から大人になったルントウの変化をめぐって、「子供から大人になって気づくこと」というテーマで、生徒たちが言葉に詰まったまま時間が過ぎていく場面がありました。そういう沈黙の多い、静かな読書会。子供から大人になる中学3年生、まして、その関門である高校受験の真っ只中である中学3年生。彼らが「故郷」を読む時、自ずと、話はこの小説を離れて、大人になりつつある自分たちの話になるのでしょうか。自分自身を言葉で探るゆえの沈黙のようにも思えます。
子供と大人の狭間にある彼ら中学3年生の物語と、現場生活の晩年を迎えつつある授業者・甲斐利恵子先生の物語。それぞれの物語が交錯したところに、この「静かな読書会」は成立していました。僕には確かに、この教室には豊かな時間が流れているような気がします。とはいえ、そんな僕も「この授業で何の言葉の力がついているの?」と聞かれると、ちょっと答えに困ってしまうのですが…。
「故郷」。。(中3のときの)私にとっても(国語の時間いいなあと思えた)とても意味のある作品でした。
教えなければ!力をつけさせたい!という真夏の太陽のような教師の強い思いがほどよく脱力されて、生徒の方からもぞもぞと動きだせるような、ちょうど啓蟄のような生暖かい感じなのかな?と感じました。
実は僕はあまり「故郷」の記憶もなく、授業でもそんなに扱わないんですよね…。でも、やってみようと思いました。脱力した授業という表現は、その通りだと思いました。