[読書]「人と人がつながるための言葉の授業」の具体像がここにある。石川晋・ちょんせいこ『対話で学びを深める国語ファシリテーション』

石川晋・ちょんせいこ『対話で学びを深める国語ファシリテーション』を読んだ。熟練の国語教師である石川晋さんの授業が、ファシリテーションを専門とするちょんせいこさんの解説で整理されている本である。紹介される実践は多岐にわたるが、その中から石川さんの授業観が浮かび上がってくる優れた実践書だ。

お二人とも、僕は多少の関わりがある方なので、このエントリを書くにあたって、これまでを反芻しながら本を読み直していたら、結果的にものすごい長文になった。僕にとっては必要なプロセスだったのだが、読者にとっては、おそらく長すぎると思う。でも、もともと僕はこのブログを「書きながら考えるツール」「考えたことを未来の自分に届けるために記録するツール」として使っているので、ご容赦いただきたい。このエントリは普通の意味での「レビュー」ではない。どうしても「レビュー」として読みたい方は、長すぎる(そして、僕にとっては必要でも読者にとっては不必要な)前半部分を飛ばして読んでください。

僕にとっての石川晋さん

僕と石川晋さんとの関わりは2012年冬のこと、僕が北海道まで授業を見に行ったのに端を発する。「北海道の公立中学校でライティング・ワークショップをやっている教師がいる」という話を吉田新一郎さんから聞いて、「公立中でどんなふうにやっているんだろう」という興味一つで行ったのだ。現地では、たしか伊垣さん、広木さん、山崎さん、久家さんもご一緒だった。授業自体はのんびりしてとても好ましい印象だったのだけど、どうしてそういう仕掛けになっているのかとか、当時の僕には「良さの秘密」がわからないことも多かったに違いない。当時はまだブログを書いていなかったので、記録がちゃんと残っていないのも残念だ。断片的な記憶が、2016年に書いた下記エントリにわずかに残っている。

[読書]肩の力を抜いた闘いの記録。石川晋『学校でしなやかに生きるということ』

2016.07.17

しかし、そんな中でも衝撃的だった石川さんの言葉がある。それは、「僕は生徒の書くものならなんでも面白がれる自信がある」という言葉。当時の僕には、「どうしたって生徒の文章には上手い下手があるのに、なんでも面白がれるってどういうこと?」と不思議だったのだ。きっと彼はそんなこと全く自覚なしに言ったのだろうが、あれは一種の「わざ言語」として機能して、その後の僕がこの言葉の謎に誘われて、自分の実践を重ねていった、そんな言葉である(『わざ言語』については下記の本を参照)。間違いなく、今の僕を導いた言葉の一つになっている。

「表現を評価されること」に対する生徒の不安な気持ち。

2017.01.19

石川さんとはそういう出会いだったこともあり、僕にとっては「作文教師」の印象が強かった。それから彼に興味を持ち、彼が自分の教師歴をエピソードで語る『エピソードで語る教師力の極意 石川晋』を読んだ時には、なんだかファンのようなメールを送っていた(これは今gmailに残っていたものを今読むと結構恥ずかしい。一部を抜粋する)。

当たり前のことですが、教員のバックグラウンドも教室もすべて異なる以上、教育に関する本はこういう記述しか出来ないのではないかと、改めて思いました。
読み終えて、教育は本質的に学術研究ではないし、科学でもないし、ノウハウでもないし、そうでないことを卑下する必要もないな、という思いを強くしました(とはいっても、僕は研究費を獲得して自分の好きなことをやるためなら「学術」を装うくらいのことはしますが…)。そのくらい魅力的なストーリーでした。

それから『学級通信を出しつづけるための10のコツと50のネタ』を読んだときも、僕は彼をライティング・ワークショップで重視される「自ら書く」指導者なのだ、書くことの指導の人なのだと思っていた。

しかしその後、石川さんが北海道の公立校を退職して上京し、各教室を訪問するようになると、彼のいつもニコニコしているのにとらえどころのない感じや、幅広く、深い力量に接することになる。まず、見学先の教室で起きている現象を彼が見る目の細やかさに大変驚いた。そのへんは、井上太智さん(今は風越の「たいち」)や甲斐利恵子さん(今は風越の「りんちゃん」)の授業を訪問した時のブログエントリに書いてきた。

「今日、何します?」からはじまる授業。井上太智さんの授業見学記。

2018.07.20

貴重な経験でした。甲斐利恵子先生の授業を、石川晋さんと一緒に見る。

2019.01.15

並行して、彼がたいちの教室で読み聞かせをする様子を見て、「教室読み聞かせ」と自身で名づけた広範囲での読み聞かせに力を入れていることも知った。合唱指導にも力を入れていることも知った。この人の専門はなんだろう、と不思議に思っていたのはこの頃の話だ。

今思うと、石川さんの専門は国語科教育に決まっているのだが、何しろ当時の僕の国語科の同僚は「専門は三島由紀夫です」「専門は中古です」「専門は源氏物語です」という人ばかりだったので、いっぱしの国語教師はみんなそういう「専門」を持っているのだと思っていた

また、石川さんがごくたまに僕の授業を見てくれ、僕の思考や授業の仕方の癖を浮き彫りにしてくれることもあった。石川さんは非常に付き合いの広い人なのだろうし、その中では僕は関わりが深い方ではないだろうが、僕からすれば、その都度、彼の言葉に照らして自分自身を見直しているエントリを書いている。つかみどころがないのだが、影響を受けているのは間違いない、そんな人である。

リーディング・ワークショップ実施中。渡邉久暢さん、石川晋さんに授業を見てもらう

2018.05.17

授業の「方法」の良し悪しを超えて、「原理」と「文脈」を見ていくことの大切さ。

2018.06.05

ライティング・ワークショップ実施中。生徒にどう働きかけるか?という問いをめぐって。

2018.09.16

教えたいことがあるのが課題。久しぶりに石川晋さんに授業を見てもらう。

2022.09.17

僕にとってのちょんせいこさん

そして、僕とちょんせいこさんとの付き合いは、一般的に言えばとても浅い部類に入る。というか直接会ったのはまだ二、三度なので「付き合いがある」と言って良いレベルかどうかも怪しい。もちろん風越学園校長のごりさん(岩瀬直樹さん)がちょんさんと共著を書いていたことは知っていたし、同じく風越の同僚だったもぎー(茂木輝之さん。現在は退職し、公立校のスクールカウンセラーとしてご活躍中)がホワイトボードミーティングの講師資格を持っていて、時折彼らを通じて話を聞いたり意識したりすることはあっても、その程度だった。もともと僕が「スキル」というハウツーっぽいという響きにあまり惹かれない性格なのもあるだろう。

ちょんさんとの接点が生まれたのは去年のこと。彼女が風越学園に来てくれて、9月と11月の二度、5・6年生の授業を見てくれた。おまけに、子どもたちにホワイトボードミーティングの手法を使った活動も実施してくれた。ちょうど当時は、ラーニンググループの人間関係作りに苦戦していて、授業でも騒いでしまう子が複数出ていたとき。そんな中で授業を見てくれたちょんさんが、子供たちの状態をアセスメントして、僕にもはっきりとフィードバックをくれたのが印象的だった。まず、彼女のアセスメントはすごかった。行動が目立つ特定の子の状態を見とって、こういう状態だからこういう関わりが必要、とはっきり言ってくれた。そして、僕自身のインストラクションについても、良くない所をはっきり「良くない、こうするといい」と言ってくれた。

僕がこの時彼女に教わったのは、「子どもは、子ども同士の関係の中で承認しあい、満たされることが大事」や「教師から見て「困る子」は、「困っている子」なのだ」という原則と、例えば次のような、できる人にとっては本当に基本的な指摘である。

  • さわがしい子を全員の前で注意しない。しても直らないし、ポジティブな声かけにならない。
  • 子どもの待ち時間をとにかく減らす。学級崩壊は、6割の子の待たされ時間の積み重ねで起きる。
  • 「ちゃんと」「きちんと」と言いたくなるところを「楽しく」に変える。NGをOKに変える。

めちゃくちゃ具体的な改善点の数々。当時の僕は、中高から小学校に環境が変わって自分の力不足をはっきり自覚していたところだった。風越滞在中のちょんさんの見取りや対話型読み聞かせの力量に感心したところでもあるし、ストレートに改善点を指摘してくれる人も少ないので、本当にありがたい指摘だった。

「困る子」は、「困っている子」であり、彼が困っているのは、周囲の環境(物理的環境や人間関係)の相互作用によってなのだ。問題に見える現象は常に相互作用の中で起きているのに、それを、問題を起こす「彼」固有の問題にすり替えないこと。環境を調整したり、こちらのインストラクションを改善したりすることで改善できるのであれば、それを目指すこと。注意するマイナスの声がけを、承認するプラスの声がけに変えること。同じような指摘は今でも同僚のあっきー(木村彰宏さん)からもらうので、これらの課題が解消されたとは思っていないけど、ちょんさんのおかげで、当時より確実に技術が向上しているはずだ。

さて、ここまで本の感想は一切なし(笑)。本については、ここからである。

楽しい活動の中に指示を「隠しこむ」授業

本書は、石川さんのこれまでの実践を、ちょんさんがファシリテーションの用語で整理・解説する体裁をとっている。その中には僕の知っている実践も、そうでない実践もあって、改めて石川さんの守備範囲の広さ、というより、捉えどころのなさに目をみはる。例えば僕の場合は作文教育というはっきりした軸があり、そこを起点に読書教育などへも守備範囲を広げていったのだが、一本の太い幹を作ってから他に枝を広げつつある僕の熟達のプロセスと、彼のプロセスは、もしかしてかなり違うのではないか。一体どうしたらこういう守備範囲の広さを持てるのだろう、と感じながらの読書だった。

しかしその中でも、読んでいるうちに、彼の授業に共通する構造があるのもわかる。例えばそれは、「子どもたちにさせたいことを直接指示するのではなく、活動の中で楽しくやらせる」構造である。例えば、十分に作品を理解するために、「丁寧に読もう」などと言うのではなく、楽しい音読活動を入れる(第4章全般)。登場人物や作品の基本設定を意識して読んでほしいとき、「基本設定を意識して読もう」と指示する代わりに、「ダウトを探せ」という遊びの中で自然にそれを意識させる(p133)。「心情に気をつけて読もう」と指示するのではなく、インタビュー活動を通じてそれを自然に想像させる(p150)。細かいところでは、「静かにしなさい」という代わりの10分間の辞書ひきもある(p83)。その極め付けは、宮沢賢治「注文の多い料理店」の「山猫軒」を作ることで、結果的に子どもたちが作品を丁寧に読んでしまう課題である(p172)。

これらの活動は、子どもからするとそれを楽しくやっているうちに、そこに隠し込まれた教師の指示を自然に達成してしまう構造になっている。まさにちょんさんの言う「『ちゃんと』『きちんと』を『楽しく』に変える」仕組みがここにあるのだ。これは、岩下修さんの『AさせたいならBと言え』とも共通しているが、優れた授業にはこういう構造が隠されているのだろうか。一般に、中学・高校と、学年が上に上がれば上がるほど、こういう工夫の手を抜いて、言葉による直接的な指示になりがちだ。もともと中高教師だった僕も、もっと上手くなりたい部分である。

緩急自在な音読の面白さ

もう一つ印象的なのは、音読指導の力の入れようである。これまでも「教室読み聞かせ」本を書いているのだから声の力に信を置く教師だとは思っていたが、彼がここまで音読に力を入れているとは知らなかった(僕は二度、石川さんの授業を見ているが、その時はそういう場面がなかったので)。本書で石川晋を初めて知った読者は、彼を「音読の教師」だと思うのではないか。それくらいの充実ぶりで、とりわけ、p85以降の木村信子「未知へ」実践は、緩急自在な音読指導の面白さが、生き生きと描かれていて素晴らしい(これもまた、「丁寧に読む」を指示ではなく自然に活動させている授業でもある)。

本書の授業開きとして紹介されている草野心平「雪」の実践(p66)は中学教師時代のものだろうから、石川さんがもともと音読に力を入れていたのは間違いない。ただ、本書でここまで音読が強調されているのは、彼が中学校の国語教師をやめて、小学校も含めて多くの現場に足を運び、そこでの指導の現状に課題を感じたこともあるのかもしれない。僕もまた、「読書家の時間」が中心の風越学園で、音読の不足を感じている。小学校の低学年から中・高学年にかけて、子供たちはゆっくりと音読から黙読に移行していく。その移行をどう支援するかは僕の課題だと思っていたので、土居さんの下記の本と並んで、この本からは良いヒントをもらった。

教科書の向こうにあるコミュニティ

他にも、題名読みとか(p106)、作品構造を読み解くに時には「転」にまず注目させるとか(p142)、「作家の時間」と短作文指導(p203)をどう関連づけようかとか、演劇的な活動を授業の中にふんだんに取り入れていることとか(第7章)、国語教師として参考になりそうなことはいくらでもあった。いつもながら、注をたくさんつけて今後の学びに開いてくれるのもありがたい(僕もここで紹介されている本を何冊か注文した)。しかし、それよりも僕の心に残ったのは、音読と同様に、石川さんが教科書をとても大事にしていることである。

僕自身は、特に若い頃は浅はかにも教科書を軽んじて自分で独自教材を作りたがるところがあって(念のため書くと、独自教材を作ること自体は、僕の力量形成におおいに貢献してくれたと思う)、中堅になって自分が教科書作りに参画するようになってからも、「作家の時間」「読書家の時間」を中心にする自分の授業では、教科書をあまり使っていない。

そういえばこの秋、石川さんが風越に来た時のこと。その日、僕はちょうどミニレッスンで森絵都の短編「帰り道」を読み聞かせていた。この作品は光村図書の6年生の教科書に収録されているのだが、僕が読み聞かせに使っていたのは単行本『あしたのことば』だった。

この授業の後、石川さんは「僕だったら教科書を使う」と言っていた。僕自身はこういう時、教科書よりも「本物の本」を使いたい人だ。また、元々風越学園は教育出版の教科書を使っているので、「帰り道」は教科書に載っていない。僕が彼にその事情を話しても、石川さんは「それでも僕ならコピーを配る」と言っていた。全国でみんなと同じ小学生が、この作品を読んでいるんだよ、と、伝えたいのだという。

その時の石川さんの教科書へのこだわりの理由が、本書を読んでわかった気がする。もちろん、本書のp71「教科書とのていねいな出会い」に書かれているように、上質のアンソロジーである教科書そのものを評価しているのもあるだろう。また、教科書の価値や使い方を若い教師に伝える意味もあるのかもしれない。しかし、それだけでない教科書へのこだわりを、石川さんからは感じる。そして、そのこだわりの理由は、石川さんの考える「国語科とはどんな教科か」と関わってくるように思う。

国語科は子どもたちが将来、そして現在、暮らすコミュニティの中で、おおむねみんなが納得できる解をみんなで持ち寄って考えていけるように、必要な言葉を育てる教科でもあります(p18)

国語科で育つ「言葉の力」は、子どもたちが将来のコミュニティで生きる土台です。また、逆に言えば子どもたちが精一杯の言葉の力を持ち寄っていくことで将来のコミュニティがより幸せな場所になっていくとも言えます。国語科は子どもたちが幸せになるためも教科なのです(p19)

石川さんがこだわるのは、国語科の授業を通して言葉の力をつけることで、子どもたちがコミュニティの一員として問題を解決し、幸せに生きる力を身につけること。そういえば、『学校でしなやかに生きるということ』には、北海道の片田舎の教師であることにこだわり、沈没しつつある地域コミュニティの将来をどう作るかという彼の問題意識が表明されていた。その問題意識が、彼の国語教師としての根幹を作っているのではないか。

その教育観を持つ彼からすれば、「教科書」は、全国の子供たちと目の前の子供たちを同じコミュニティのメンバーとして結びつけるツールなのだ。つまり、教科書を媒介として、姿の見えない同年齢の子たちをイメージし、彼らと繋がる可能性に自分の想像力を開くこと。それを、石川さんは子供たちに期待している。だからこその教科書なのだ。

具体的な実践から、実践者の信念が見える

優れた教育実践書とは、具体的な実践の姿から、その人の信念や国語教育観を浮かび上がらせるものである。一見、何がこの人の「柱」なのか分かりにくいほどの広さをもつ、石川晋さんという国語教師。彼の拠り所は、結局のところ「人と人がつながるための力を育てる」という国語教育観なのだと思う。だからこその「協同的・協働的」であり「対話」であり「体験ベース」である。そして、テキストの向こうに人が確かに息づいていることをイメージできるようになるための、音読であり、演劇的手法であり、教科書の利用なのだ。さらにそれを、自分と子どもをつなげるための、指示を楽しい体験の中に隠しこむ授業の構造や、丁寧に練られた言葉がけが支えている。

こう書くと石川さんの授業がいかにも全てが意識的に統制されているようだが、多くの熟達者がそうであるように、実際には彼自身も無意識のところがあるに違いない。そこを、ちょんせいこさんの助けを借りて、石川さんの授業実践の全貌やその根幹を「ファシリテーション技術」という観点で言語化して提示してみせたところに、本書の大きな価値がある。

もともと、ファシリテーションとは「人と人をつなぐ」技術。ちょんさんはそれを専門として、アセスメントする目も自身の場の作り方も、(風越学園で見せてくれたように)抜群の腕を持つ方である。そんなちょんさんだからこそ、「人と人がつながるための力を育てる」ことを大事にする石川晋さんの国語の授業の本質的な価値を理解し、こうやって言語化できたのだろう。その意味で、この本はまさに、この二人ならではの共著なのだと思う。「人と人がつながる力を育てる言葉の授業」の具体像が、ここにある。

 

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