以前のエントリで触れた「大人のブッククラブ」の「モモ」読書会。実はこの日、課題本が児童書ということで、あすこま家の新小6娘も参加していた。ところが、娘の読み方は僕の読み方と全然違っていたのである。今回はそこから考えたことを書いたエントリ。
目次
ささいなところを面白がる読み方
今回、僕の娘が「モモ」の感想で触れていたのは、すべて僕の予想外のところだった。登場人物の男の子が自分の弟に似ていること、鉛筆では鏡に文字を書けないはずなのに、この本の中ではなぜか書けてしまっていること…。そのへんを娘はイキイキと語っていた。そして、この「大人のブッククラブ」読書会では基本的にどんなふうに読んでも自由なので、そんな娘の読みも周囲に受け入れられていた。
かくいう僕自身も、娘の読みに否定的だったわけではない。むしろ「なぜいまの自分はそういうささいなところを面白がれないのか。昔はできていたのだろうか? もしそうなら、いつ頃からかできないようになったのだろうか?」と、自分との違い、自分の読みの限界としても受け止めていたのだ。
「読みは自由だ」というけれど…
ところが普通、学校の国語の授業では、こういう読みはまず尊重されない。登場人物が弟に似ているなんて個人的すぎるし、鉛筆で鏡に文字を書くのも話の本筋に関係がない。これらはいずれも、本文の深い読み取りにつながらない、ささいすぎる読みなのである。
もちろん学校の授業でだって、「小説の読みは本来自由なもの」「本文中に根拠があれば、どう読んでもいい」と言う国語の先生は少なくない。しかし、一方で、学校の授業にはみんな「目的」がある。「制限時間」もある。そこで、先生は多様すぎる読みに関わって無駄に時間を使わないよう、授業の目的にそって様々な読みを序列化する。唯一絶対の正解はなくても、「より良い読み」はあるのである。意地悪く言ってしまうと、読書会に出てくるような多様な読みは、学校に放り込まれるたとたん「授業展開に役立つ読みと、そうでない読み」に分類されるのだ。
「はい、他になにかある人いるかな?」
「自由」と標榜しつつも、実際には特定の目的に沿って品定めされる。学校における「読み」のそんな中途半端なポジションが露呈してしまうのが、「どうでもいい読み」が生徒から発せられたときに先生が戸惑いつつ見せる、「うん、それも一つの読みで間違ってないね〜。はい、他になにかある人いるかな?」という類の反応だろう。先生は間違っていると断言はしないけど、そういう「スルーする態度」で「あ、これはダメだったんだ」と生徒に悟らせる。そうやって先生が授業目標に沿わない読みをやわらかに排除していくのは、一斉授業での日常茶飯事だと思う。
教室という場の支配力
誤解してほしくないのだけど、僕は決して、学校が特定の読みを排除することを非難するつもりでも、まして糾弾するつもりでもない。教育が何らかの目的を持った営みであり、時間の制約もある以上、それが通常の「読み」と異なってしまうのは、ある意味で仕方ないことだからだ。
しかし、教室で僕らがやっていることの「意味」は何なのだろうとは思う。プライベートな読書会では全く問題のない、時には読みの多様性として面白がられることが、教室では歓迎されない。そこでは、「物語の主題」などの「深い読み」や、そこにつながる「本質的な問い」を考えることが要請され、教育目的に沿っていろいろな「読み」が序列化されていく。僕たち教師も、「深い読み」をさせようとして、生徒が些細な読みにこだわっていると、なんとかしてもっと「本質的な深い読み」に至らせようとしてしまう。それによって僕たちがしてることは一体何なのか。
「国語の授業」としておこなう「読書会」とは何か?
さらに興味深いのは、読書会のような「自由な読み」を歓迎する授業においてでさえ、僕たちは「深い読み」を求める性向から逃れられないということだ。普通の読書会では(少なくとも「大人のブッククラブ」では)では何をどう読んでも自由だったのに、学校で読書会をやるとなると、つい「良い読みをさせよう」と思ってしまう(下記エントリ)。
そういう癖のようなものを、僕たち教師は持ってしまっている。良し悪しは別として、教室という場の支配力をひしひしと感じる。ふだんはそういう流れに身を置きながらも、ときおり、読むことや書くことを、教室という場の支配力から解放して、もう少し日常に根ざした文脈の中で読むことや書くことの体験ができたらとも思う。読書会というのは、そもそもそういう体験の機会だったはずだ。
学校で行われる「読書会」の授業は、学校の外で行われている読みの交流の楽しみを、学校の中に持ち込もうとする営みである。でも一方で、読書会はそもそも、特定の「目的」にそって多様な「読み」を序列化しようとする学校の授業とは、どこか本質的なところで相容れないところがある。これはいったいどう考えれば良いのだろう。そして、どういうふうに授業を作れば良いのだろう。「国語の授業」と「読書会」のビミョーな関係が、なんだか最近気になっている。
学校の国語の授業ではそんな風に先生の意図した流れで展開されることがあったように思います。子どもたちは先生の顔色をむしろ読むのに一生懸命(笑)ただ、そうした中にも、授業として成立させるのをはやめにあきらめて、自由に討論させてくださった先生もおられました。楽しかったです。それでも先生はどう思うかもききたがりましたが、それはそれでいいと思います。生徒たちも先生もひとりのその場の参加者として、尊重したのでしょう。先生も生徒からのツッコミにその場で懸命に考えてくれて、今思い出してもとてもいい授業でした。(先生からみると教案は役に立たなかったでしょうが)授業、ちゃんと以上に成立してました。
僕も生徒の意見に付き合うとそんな感じになるのですが、グダグダ感にあふれてしまうのが悩ましいところです…(笑)