2023年度の「作家の時間」、オープニングのミニ・ユニットである「フシギな五行詩の世界」がファンレターやその返信も含めて終わった。いよいよ明日から次のユニットが始まる。作家の時間が本格的に始まる前に、今年の作家の時間で考えてみたい問題をいくつか取り上げてみた。
目次
良い「ユニットテーマ」は何か?
2021年度の秋から、僕は詩歌などの一部を除いて「ジャンル」(物語、エッセイ、意見文…など)で縛るのではなく「テーマ」で子どもの作品に制約をもうけるやり方を模索している。その理由は、一つには基本的に物語を書きたがる子どもたちが圧倒的に多い中で、「はい、今回はエッセイを書きましょう」「今回は説明文です」とジャンル縛りをするときの熱量の低下が目立つからだ。できるだけジャンルで縛るのをやめたい。かといって、完全に自由にするとかえって苦しいし、コンフォートゾーンに止まって学びも生まれにくいので、どの子にも学びがあって取り組みがいのあるハードルを用意したい…。
我ながら、そんな都合の良いユニットテーマがあるのかと思うが、去年までの中で一番手応えがあったのは、「視点を変える」だった(下記エントリ参照)。
今年も、この「テーマ」中心に作家の時間をやっていきたい。でも、どんなテーマがいいんだろう。今のところのテーマのリストは、実施したものもそうでないものも含めて次のようなテーマ。
ユニットテーマ | ユニットの狙い |
「視点を変える」(去年実施) | 語り手を意識するためのユニット。オーソドックスなのは、既存の物語の視点を変えたリライト(桃太郎の鬼視点)や、「のはらうた」のような非人間の視点のお話や詩で、これなら書くのが得意でない子も取り組みやすい。
ある程度力のある子は、一人称視点や三人称視点を意識して物語や過去の経験を書く。また、途中で語り手が交代する物語を書くこともできる。エッセイなら、過去に自分のものの見方が変わった経験を書くこともできる。 他のジャンルでも、見立ての解説文や、「普通はこう考えるけど、視点を変えると…」のような、一般論と対比する意見文も書けなくはない。 |
「トラブルの行方」 | 何か事件があって、それを解決しようとするというストーリー構成の最小単位を意識するユニット。力のある子には、それに加えて「解決のための困難」「協力者」など、いろいろな要素を付け加えていくことが可能。物語やエッセイなどが中心になるかな。 |
「得るもの、失うもの」 | こちらも「構成」に関するユニット。最後に何かを得る、最後に何かを失うという構成で物語を書く。力のある子には、何かを得る一方で何かを失うなどの葛藤状況を作り出すことを教えることもできる。
エッセイとして、自分が大事なものを得た/なくした経験などを書くこともできる。友達を失ってしまった、など。意見文も書けなくはなさそう。 |
「揺れる思い」 | 物語であれ、エッセイであれ、ある心情が別の変化に変化していくことにフォーカスするユニット。意見文は書きにくそう。 |
「色が変わる」(去年実施) | 文章の中で、何かの色が変わることを条件にしたユニット。時間の経過とともに空の色が変わるでも、不思議な飴玉を舐めていたら色が変わったでもいい。顔色が変わるのでもいい。そのことを通じて、視覚を使った描写をしてもらうユニット。理科の着色実験などの説明文も書ける。 |
「まねる」(去年実施) | メンターテキストを用意して、自分が真似をしたいそのテキストの要素を真似て書くユニット。とにかく、テキストをよく読んでそれを自分でも使ってみることを通して、読むことと書くことをつなげるのが目的。
去年やった時は真似るレベルは色々自由にした(構成やアイディアのマネでもいい)のだけど、それだと実際にテキストに戻らなくてもできてしまうので、どこまで縛りをかけるかは迷いどころ。 |
現状の「ユニット」の課題
考えていくと、結局は「構成」「心情」「描写」「視点」などの「教えたいこと」から生まれるユニットが多くて、「これでいいのか?」と思わないでもない。あと、子どもたちが物語を書きたがるので、どうしてもそっち方面に偏ってしまう。説明文や意見文なら「大情報から小情報へ」「結論先述」などの基本的な構成の工夫が別にあるが(「はじめ・中・終わり」は、個人的にはそれほど意味のある構成とは思えない…)、それらを教えたいならジャンル縛りのユニットを設けるしかないのだろうか。
僕の場合は、もともとが高校生を相手にしていただけに、本当は教えたいこと・教えられることはもっとたくさんある。そのせいでついレベルを高めにしてしまって、ユニットで設定するハードルが、目の前の子どもたちの現状と比べて難しすぎる、なんてことのないように気をつけねばならない。これも僕の課題。
ユニットテーマの表現
これらのユニットテーマをどう表現するかも、特に小学生相手だと、考え抜く必要がある問題で、例えば「トラブルの行方」は「事件ー解決」というストーリー構成を学ぶユニットである(これは三藤恭弘『「物語の創作」学習指導の研究』のおかげだ。)
ただ、これを「事件と解決」と表現するか「トラブルの行方」と表現するかで、子どもの受け取り方はだいぶ違う。今回は、「事件」だと盗難事件や殺人事件などのいわゆる「事件」をイメージしやすく、「トラブル」の方がちょっとしたハプニングや友達同士の喧嘩も含めて考えやすいなと思い、トラブルに。そして「〜と解決」よりも「〜の行方」の方が、結末がどうなるか子どもがつい考えたくなるのではないかと思って、「トラブルの行方」にしている。これでいいのかどうか。どういう表現が本当に目の前の子どもにヒットするかは、実際にやってみて経験値を積み上げる必要がある。これは同僚のこぐまさん(岡部哲さん)の図工のタイトルの付け方を聞いてから、だいぶ考えるようになった問題。
一方で色々なジャンルも経験してほしい
さて、こんなふうにユニットテーマを重視しつつ、一方で、子どもたちに色々なジャンルに挑戦してほしい気持ちもないわけではない。「作家の時間」=「物語を書く時間」という誤解は避けたいし、物語をちゃんと書こうとするとけっこう難しいので、それで苦しんでいる子も散見されるからだ。
一般に、「いろいろなジャンルに挑戦してほしい」時にどうするだろうか。
- 毎回ジャンルで縛る(今回はエッセイを書く、今回は物語を書く、などと決める)
- ジャンルごとの作品ノルマ数を決める(年間でエッセイと物語を何本書く、などと決める)
- 一つのユニットにつき、異なるジャンルのものを2作品書くと決める
- 別ジャンルを書きやすいミニコーナーを作品集に設ける
上の「1〜3」は、程度の差はあれ強制、「4」は「お誘い」だ。2022年度の最後は作品集に「どこまで本当かわからない日記」「この際だから言わせてほしい」という特集コーナーを設けて、日記の方には結構な数の子が作品を寄せてくれた。今年はどういう形で子どもたちを誘おうか、それとも強制の度合いを高めた方がいいのか、考えている。「3」のやり方も面白いが、そこまでの時間がなさそうだ。とすると、去年と同様に「4」が落とし所なのだろうか。
意見文をどうするか….
ジャンルについて考えるときに気になるのは説明文や意見文などのノンフィクションの文章だ。ノンフィクションの文章って、書き手のうちに「何か伝えたい」思いがあってはじめて本当に書きたいと思うもの。「今回は意見文を書きましょう」と先生に指示されて「じゃあ、自分の意見は何かな」と意見を探し始めるのは、根本的には順序が間違っている。
でも、この「意見を持つ状態を作る」って難しい。通常は何か反論したくなる材料を与えたりするのだろうが、それとて万人向けのものはあり得ない。だから、本当に意見文を書いてほしいと思ったら、自分の意見が人に聞いてもらえたり、それが実際に学校を動かしたりする土壌が、日常的に用意されている必要があるのだろうな、と思う。現実には、そうとばかりも言っていられないだろうが…。
「書き慣れる」ことと「丁寧に仕上げる」こと
別の話題。文章を書く上では、それこそ「書き散らす」ように、文章の質を考えずにたくさん書くことと、いったん書いたものを読み直し、冗長な部分を削ったり描き直したりして、丁寧に仕上げることの、その双方が必要だ。迷うのは、「書きなれる」ことと「丁寧に仕上げる」ことを、どのようなバランスで子どもたちに経験してもらうか、ということ。
前提として、本人が「丁寧に仕上げたい」と思っていなければ丁寧に仕上げる経験はできない。だから、また、それができるには自分の作品をメタに見ることも必要だ。とすると、どうしてもしばらくは「書き散らす」だったり、「だらだらたくさん書く」だったりする時期が中心になる。小学校期はそういう時期と割り切ってもいいのだろうか。ここが迷いどころ。
というのも、アトウェルの学校や、ロン・バーガーの教室では、かなり丁寧な書き直しが要求され、「より良いもの」を目指しての試行錯誤が日常化している。そこには、教師のさまざまなアプローチがある。つまり、教師のアプローチ次第で、小学生でも質を高めることはできるし、少なくともそうしようとする文化を作ることはできるはずだ。もともとアトウェルから出発した僕は、そういう実践にどうしたって憧れてしまう。
どうやって子どもたちに、自分の作品を丁寧に仕上げたいと思ってもらうか。それには、子どもたちの作品を丁寧に扱い、それを共有していくことで、その気持ちを間接的に生んでいくのが一番だろう。作品だけでなく、プロセスにおける良いチャレンジも発見して、「自分も丁寧に書きたい」「良い作品を作りたい」という思いを自然に生んでいきたい。それには、お互いの関わりを生んで、友達から真似したくなるような状況を作っていくのが大事。
子どもたちをつなぐ場作り
というわけで大事なのが、子どもたちの関係をつなぐ場作りの視点だ。そういう視点がなく、「作家の時間」が黙々とした個人作業になってしまうと、書けない子にとって辛い時間になっていく。どうやって子どもたちの関係を作っていくか。
それにはまず、色々な子の作品の良さを認め、色々な子たちに活躍の場を与えること。それは、作品の良さを見抜く目やそれを説明する言葉を持っている僕が、教室で果たせる役割の一つだ。まずはそこから、子どもたちの関係性を作っていきたい。毎週発行している「国語教室通信」で子どもの声を載せること。ミニレッスンでもできるだけ子どもの作品を使うこと。作家の時間の最後の「共有の時間」(僕の授業では「オーサーズ・トーク」)を必ず行うこと。僕ができるのは、まずはそこだな。そして、教室におけるコミュニティ形成の視点を重視した『国語の未来は「本作り」』をもう一度読んで、他にもどんなことができるか、考えてみよう。
また、この本を読んでのトミーとのやりとりも、改めて読み直すと大事なことが書いてある。価値の多元性を保証することで、安心してのびのびと書ける。そんな場作りにも留意したい。もちろん、多元的になればなるほど特定の技術を教えることは難しくなるので、前者に振り切らないで両立を目指すのは、難しい問題だ。そして、「認める」とは、単純に「コンフォートゾーンにいつづけていい」というわけでもない。ストレッチゾーンに入らないことには学びが生まれないので、どうやってそこに向かってもらうかも大事。
ただ。今年の受け持ちの子たちの特性や人間関係を見てても、今年は特にコミュニティ形成が大事そうだな、と感じている。ここは力を入れないとなー!
「完全に自由にしないで、子どもの手がかりになるような制限を与える」というユニットテーマのアイディアと、価値の多元性の保証は、本質的には両立しにくい。前者は、一定の価値の尺度を教室に放り込むことだからだ。でも、子どもの書く力を育てて、書くことが好きになる文化を作る上では、きっとどちらも大切なはず。どちらか、ではなく、どちらも、を目指して頑張りたいな。
保護者との関係づくり
最後に、これも手間がかかるけど、保護者との関係づくりも大事にしたいこと。ファンレターについては下記エントリに書いたばかりだが、負担はかかるとはいえ、できるだけやっていきたい。保護者と教員は、もともと子どもを真ん中に置いて一緒の方向を見て進んでいけるはずのパートナー。教員だけでどうにかなるものでも、親だけでどうにかなるものでもない。
こうやって改めて書いてみると、やりたいこと、考えたいことは本当に山ほどあるなあ。気持ちはわくわくする一方で、あとは、限られた授業時間45分をどう配分して使うか。そして、自分の健康と家庭を守れる範囲で、優先順位をどうつけて、どこまでやっていくかだな。頑張っていこー!