ピーター・ジョンストン他『国語の未来は「本づくり」』を読んだ。ここ数年、吉田新一郎さんは新評論から共訳の形で立て続けに本を出しており、この本はマーク・クリスチャンソンさんとの共訳である(おそらく主たる訳者はマークさんだろう)。タイトルと吉田さんの名前からご想像のとおりライティング・ワークショップ関連の1冊だが、幼稚園〜小学校低学年での実践ということもあり、読み書き能力の育成だけでなく、主体性・社会性の育成に重点が置かれており、「作家の時間」の良さを大きな文脈で捉え直すことができる本だ。つい実践の楽しさにのめりこんで視野が狭くなる僕にとっても、大いに得るものがある1冊だった。
目次
子どもの社会性・主体性を育てる視点での「作家の時間」
「本づくり」と言うと、作文の授業の本格的なアウトプットとしての「出版学習」をイメージする方もいるだろう(実際、僕はそうだった)。しかし、この本はいわゆる「出版学習」に特化した本ではない。原著タイトルは Engaging Literate Minds: Developing Children’s Social, Emotional, and Intellectual Lives, K-3。訳が難しいが、『文学する心をはぐくむ:幼稚園から3年生までの子どもの、社会的・感情的・知的生活を育てる』はどうだろう? このタイトルのとおり、本づくりの実践を通して、子どもの社会性や主体性を育てることに重点が置かれている。
学び合う集団づくりの具体的手立てが豊富
そして、「作家の時間」をまがりなりにも実践だけはしてきた僕も、この本に教わることがたくさんあった。とりわけ、ミニレッスんで子どもの作品をとりあげるときに、教師が紹介してしまうのではなく、あくまで子ども主体ですすめていく方法(p72)をはじめ、子どもたちがお互いから学び合う風土をつくっていく具体的な工夫が満載なのだ。僕はつい教師対子どもの1対1カンファランスに頼りがちだが、子どもは教師よりも子ども同士から多くを学ぶもの。そしてこの本が目指しているのは、「子ども同士が学びあっており、教師はその補助をしている」環境づくり(p236)なのである。その具体的手立てがとにかく豊富。それを象徴するのが、下記のような「有能」の定義だろう。単純な文章の上手下手に陥らないこの定義は素晴らしいと思う。
私たちの教室における「有能である」という言葉の定義は、作家のコミュニティーに積極的に参加し、アイディアや気づきをほかの作家たちと共有しながらともに本をつくっていくこと、となっています。(p113)
書き手の自己形成をうながす語りや問いかけ
もう一つ感心したのが、筆者たちが子どもの書き手としての自己形成をうながす語りや問いかけを繰り返していること。例えば、子どもの作品にコメントする時に「作家の◯◯がこの本で使っている技と同じだね」とさりげなく語りかける(p38)。また、以下のような自己評価の場面での問いも、自分の強みにフォーカスして、書き手としてのアイデンティティを強める働きかけがある。真似していきたい。
- 「自分の好きな作品を一つ選び、どうしてそれが好きなのか、そしてその作品を通して、自分が作家としてどのように成長したのかについて教えて下さい」(p203)
- 「9月にはできなかったけど、今はできるようになったことは?」(p203)
- 「自分の両親に伝えるとしたら、作家としての自分についてどういうことを知ってほしいですか」(p204)
共感!責任の移行モデルへの批判
さらに、面白かった&共感したのが、p146〜147にあった「責任の移行モデル」への批判である。僕は「責任の移行モデル」を提唱したフィッシャー&フレイのワークショップに参加して「教師の教えたい内容を生徒に教え込むモデル」であることに強い違和感を覚えたことがある(下記エントリ参照)。
あの時僕が感じた違和感を、この本でははるかにちゃんと言語化してくれている。この本も指摘する通り、結局「責任の移行」モデルは、教師が決めた知識やスキルを子どもたちが(失敗やつまづき少なく)マスターするための手立てなのであり、子どもが試行錯誤しながら自分の目標に向かって進むためのモデルではない。そこは、僕の考えるライティング・ワークショップとの大きな違いだ。ちなみに、同じ「責任の移行モデル」を紹介した『学びの責任は誰にあるのか』も吉田新一郎訳本シリーズなので、吉田本が吉田本を批判している流れも、なかなか意外で面白かった。
疑問も…こんなに早くからやる必要ある?
一方で、この本の実践が基本的に幼稚園〜小学校3年生対象であることには、大きな疑問も残った。この本では「作家の技」を子どもたち自身が見つけることや子どもが振り返りをすることに重点を置いているが、端的に言って、早期教育に過ぎる気がしている。もともと、子どもの認知能力の発達は、大人が期待するよりも遅い。小さなうちは手書きや正しい綴りにワーキングメモリを使ってしまうので、読者を想定しながら効果的に書くことができるのは、10代になってからとされている。
そのことを考えると、本書の実践は行き過ぎた「先取り教育」に見える。先取りをしても一定数の子はできるのだろうが、その先取りにどんな意味があるのかが疑問である。どうせあとになって追いつけるのであれば、先取りをする意味はない。個人的には、小学低学年の子どもに充分な外遊びの時間が大切なように、このくらいまでの子どもには、スキル云々ではなくたっぷり読み書きの経験を確保することに徹したほうが、つまり、楽しんで読み書きすることに徹したほうが良いと考えている。もちろん、一つひとつの実践はとても優れているが、対象を小学校3年生以上にしても良いくらいではないだろうか。また同時に、カンファランスの視点が細やかなことに感心する(p54-57)一方で、時に評価の視点におけるスキル的要素があまりに多く細かいため、「習得すべきスキル」に子どもたちを寄せてしまわないか、気がかりに見えた部分もあった(p174)。このあたりは、小学校低学年はどんな経験を積み重ねる時期なのか、という点について僕と筆者たちに違いがある、ということなのだろう。
小学校の先生にはこちらが入りやすいかも?
とはいえ、時期の問題を除けば、本書はライティング・ワークショップの実践書として学ぶところが多い。類書の中では、先行する『ライティング・ワークショップ』や『作家の時間』のほうが具体的な授業のイメージしやすさという点ではわかりやすいとは思う。
しかし、この本は上記の本ではあまり強調されていない「大きなビジョン」を掲げてくれている。筆者たちが「本づくり」の実践で行おうとしているのは、以下のようなことなのだ。
- 気づくことの大切さを子どもに伝え、気づきを学びの中心に位置づけ、子ども自身が学びの主導権を握るようにする
- 子どもに本づくりの環境を提供し、自分たちの興味を探究したり、お互いに協力することを促したりする
- 多様な視点があり、探究の答えは一つではないことを強調しながら対話する (p244)
これが決して「国語」だけの範囲に収まるものではないことは、言うまでもない。こういう姿勢を通して、筆者たちは「人間関係を構築する力、社会的想像力、そして自己認識と他者に対する認識をコントロールする力」(p250)を育てようとしている。
基本的に「教科の人」である僕と違って、小学校の先生には特定の教科だけでなく全人的教育に関心のある人が多い。そういう人には、こういう目標を掲げるこの本から「作家の時間」に入るほうが、きっと入りやすい。また、僕のように「教科」に偏りがちな人間にとっては、自分の実践の意味をより大きな教育的観点から捉えるのを助けてくれる本でもある。
これから本格化する読書会も楽しみ!
実はこの本、翻訳者のマーク・クリスチャンソンさん主催のブッククラブがあり、僕はそれもお目当てて読むことにした。昨日、zoomでメンバーの顔合わせがあり、これからドキュメント上で本格的な読書会がはじまる。以前の『社会科ワークショップ』読書会もそうだったが(下記エントリ参照)、全国にいる、しかしまだ数少ない「作家の時間」実践者との交流から学ぶことは多くある。いちおういったん通読したとはいえ、これから本格化する読書会で、また自分の読み方も変わるかもしれない。これからを大いに楽しみたい!