「遊び」と「学び」をどうつなげるか

「遊び」と「学び」をつなげること。軽井沢風越学園では大事なコンセプトの一つだけど、僕には長らくピンと来ていなかった。でも、ここにきて道筋が見えてきたなと感じる。今日はその道筋をくっきりさせるために、現段階の考えを整理して、書き留めておく。

画像はお盆休みに行った小海町・佐久穂町の白駒の池。池を取り囲む「苔の森」とともに、美しい場所でした…!

目次

僕の過去と「遊び」

僕が風越学園に来たのは、「自由と自由の相互承認の感度を育む」という理念への共感や、ここならライティング・ワークショップやリーディング・ワークショップの実践に浸れそう(KAIさんたち、小学校の実践者からも色々と教われそう)という期待からで、「遊びと学び」については特に強い思いを持っていたわけではない。

もともと、小学生の頃から「外遊び」が嫌いなインドア派。話の合う友達もあまりいなくて、休み時間も本を読み、登下校中も、犬の散歩中も、いつも一人で本を読みながら歩く子だった。中学受験の塾の勉強の面白さが、数少ない「遊び」だったかもしれない。こういう原体験ってかなり大きいことを、僕はここにきて思い知る。僕には「遊び」、特に風越学園で特徴的な「野外の外遊び」への共感がほとんど全くないのだ。感覚は、論理よりも先に立つ。僕が風越に来て「ギアが上がらない」と感じる理由の一つに、「遊び」についての肯定的な体験知の乏しさがあった。

教育の出発点をどこに置くのか?

少し違う角度から書いてみる。教育を語るときに、大きく分けて二つの語り方がある。児童生徒が自分の願いを実現させる力をつける意味での教育と、社会から求められる力を身につけさせる意味での教育だ。「子供から出発」の前者は、子どもの思い、その子の興味から始めて、その子の世界を広げていこうとする。「社会から出発」の後者は、社会生活に必要な力や、そこから派生する「教えるべきこと」を、子どもにどう教えるかを考える。

もちろん教育には常にこの両面があって、「どちらか」を選ぶことはできない。それでも、出発点をどこに置くのかは大きな問題だ。例えば、学習指導要領から教育を語る人、あるいは、「これからの社会はこうだから、こういう力が必要だ」と語る人は、後者の意味での教育を出発点に、教育を考えている。

「子どもから」と「教えるべきことから」

大まかに言えば、教師がそのどちらの志向性を持つかにも傾向がある。風越学園に来て知ったのだけど、保育スタッフは徹底して前者。常に子どもから出発する。子どもの感情、子どもにとっての意味、子どもの見方…。そこから出発して、どんな方向に世界を広げていこうか考えている。子どもに大人が「ついていく」感じだ。事前に用意されるカリキュラムも最小限にして、目の前の子どもに伴走しながら作っていく。

一方、中学校高校と上がるにつれて、「教えるべきこと」、つまりコンテンツを重視する人が増えてくる。古典のこの教材を、でも良いし、この資質・能力を、でも良い。とにかく「教えるべきコンテンツ」が先にあり、それをどう子どもに伝えようか腐心する。カリキュラムは、基本的には授業前に作っておく。それを目の前の生徒の実態に合わせて工夫はしていくけれども。

僕は基本的に「教えるべきことから」派

僕も基本的には後者のタイプだ。中高でライティング・ワークショップをやっていると珍しいことも相まって「子ども中心主義」的に見られることもあったけど、僕のなんて、たかが知れてた。風越に来たら僕はバリバリの「でも、教えるべきことってあるよね」派だった。6月はいつもそんなことを言っていた。

振り返ってみると、そもそも僕は、子どもが好きだったり子どもを教えたかったりして教員になったのではなかった。自分が勉強を続ける手段として教員になったのだし、僕の教員生活の出発点は、子どもではなく、学ぶ価値のあるコンテンツにある(高校の先生には、こういうタイプの人は少なくないと思う)。ライティング・ワークショップもリーディング・ワークショップも、シンプルに「そうすると読み書きの力がつくから」やっていて、子どもありきのつもりで始めたのではない。

また、僕は「学ぶべきことは、万遍なく全てやりなさい」派でもある。実際に自分の子どもには「選り好みしないで、今の自分には面白さがわからなくても、全ての教科内容をまずは面白がろう。先達が、これが価値があると認めて来たことなんだから」と伝えている。

とはいえ、この台詞を自分の苦手なスポーツに置き換えると、僕自身に「今のあなたには面白さがわからなくても全てのスポーツにまずは取り組みなさい」と言うのと同じなので、ずいぶんマッチョな話だな、とは思う。自分が勉強が得意だったから、それを子どもにも押し付けているんだな、とも自省する。

また、認可外保育「かぜあそび」や風越ワークショップの仕事をする中で、遊んでいる子どもを見る保育スタッフの対応の素晴らしさを目の当たりにして(その一例は下記エントリ参照)、「子どもから出発する」ことの価値を感じてもいる。保育に限らず、他のスタッフと一緒に仕事をしても、なるほどすごいな、自分にはこれまだまだできないな、と思うことが多い。

「いいね」と言うのではなく、両手で花をつくる。物語に入り込む関わり方。

2019.06.22

「遊び」と「学び」をつなげるとは?

そんな周囲のスタッフと一緒に仕事をする中で、僕は次第に、「遊び」という言葉を、自分にとってなじみのない「外遊び」の意味から、「子どもから出発すること」という意味に、変換して捉え始めていた。確かに風越には表面的には「外遊び」要素が強いのだけど、そう捉えたままでは、自分の過去の経験から言って僕がそこに積極的な気持ちで関わるのは難しい。僕の中で、「「遊び」と「学び」をつなげること」は、「子どもから出発して、教えるべきことにつなげること」に読みかえられていく。

でも、どうすれば、子どもから出発して、教えるべきことを教えられるのか?これは、僕がこれまでやっていた「教えるべきことを教えるために、その手段として子どもに選択権を与える」とは似て非なるもので、とても難しい。子どもの関心から出発する以上、「教えるべきこと」を全て網羅することは、当然できない。「教えるべきこと」を本当に絞らないといけない。それでいいのか、ためらいがある。

 

感情と結びついた知識をつくる

このためらいは、今も消えていない。これからも完全に消えることはないと思う。しかし、先日、風越学園と地元の学校の合同研修会で佐伯胖先生の講演があって、そこでこの疑問をぶつけた時の返答が、記憶に残った。佐伯先生は、こんなことをおっしゃった(以下は僕の解釈なので、言ったことそのままではない)。

教科のどんな知識にも、その知識が発見される時の過程で生まれた喜びや面白さがある。結果としての知識ではなく、知識が発見されるルーツ、プロセスにある面白さを教えてほしい。ただ結果としての知識を教えるだけでは、その知識の価値は伝わらない。その知識が生まれるワクワクを伝えるという姿勢で授業をすれば、それは一方的に「教える」ことにはならないはず。

なるほどと思ったのは、教えるべきことは、知識そのものというよりも、知識が生み出されるプロセスや、そこに生じる喜びや興奮だ、という指摘である。教科書の中ではただの語句の羅列になってしまう「死んだ」知識を、それが発見された当時の、あるいは自分がそれを知った時のワクワクとともに教える。キエラン・イーガンの『深い学びをつくる』でいう「感情と結びついた知識」。それをともに作り出すのが、教えるということである。

[読書]感情と結びついた知識を学ぶために。キエラン・イーガン『深い学びをつくる』

2019.07.03

このアイデアに完全に同意したわけではないけれど、おぼろげながら、「遊び」と「学び」を、つまり「子どもから出発」と「教えるべきことから出発」をどうつなげるのか、見えたように思った。鍵になるのは、感情なのだ。感情を介さない知識は、ただの化石にすぎない。それは、いくらこちらが教えた気になっても、子どもの側には残らないだろう。知ることの喜びと紐づいた知識を、教えるというよりも作り出す。「教える」ことがそういう行為なのだとしたら、子どもの感情を尊重することは、教えるという行為の中核にある。子どもの興味、子どもの好き、子どもの反発。なんであれ、子どもの感情と紐づく場に知識は生み出される。

 

「遊びと学びをつなげる」再考

繰り返すと「遊びと学びをつなげる」ことは簡単ではない。下手をすると、「幼稚園や小学校低学年頃までは外でたっぷり遊んだから、ここからは切り替えて勉強をしましょう」ということになりかねない。それは全く遊びと学びをつなげていない。

「遊びと学びをつなげる」という言葉は、中心に「子どもの感情」を置くという宣言なのだ、と今の僕は捉えている。子どもの感情を無条件に肯定するわけではないし、子どもが「これは勉強したくない」と言ったらそれがいつまでも認められるわけでもないが、それでも、いったんは「子どもの感情」を中心に置く。

幼少期の(これは字義通りの)遊びをたっぷりして、そこで自分の感情を大切にして試行錯誤することを学び、その経験をもとに、年齢があがっても感情と紐づいた知識を構成していく。そうやって作った知識は、教科書の膨大な範囲を偏りなくカバーすることはできないけれど、深い知識にはなるはずだ。

風越学園が幼稚園から始まって中学校まである意味は何か。「遊びと学びをつなげる」とはどういうことか。とりあえず、2019年8月末の時点の僕は、この問いに対して、こんなふうに考えてはじめている。とはいえ、理屈でうっすら道筋が見えてきても、「教えるべきことがある」派の僕としては、腹落ちはまだ先の話。実践しながら、この考えが深まるのか、やはり違うとなるのか、さて、どう変わるのかな。

 

 

 

 

 

 

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2 件のコメント

  • 興味深く読みました。最近、野外で算数を自分の言葉でワークショップをしていますが、その時、私の原点でもある「センス・オブ・ワンダー」とつなげ、体験学習のプロセスと一緒に話しをすることで、「遊びと学びをつなげる」ことが少し自分のものになって来た感じがしています。またお会いしたいですね。

    • 山本さま、ありがとうございます。野外の算数をしていらっしゃるんですね。遊びと学びをつなげる、自分の実感としてはまだまだです…(汗) またよろしくお願いします。