もう一歩前へ。「カリキュラムは人である」。

雑記です。先週から今週にかけて、軽井沢風越学園での仕事が、大事なフェーズを迎えていました。どんな風にカリキュラム全体をデザインするか。子供たちの「自分が〜したい」を大事にしつつ、大人の側からの「出会ってほしい」「これを学んで欲しい」をどういう風に手渡していくか。具体的にそれを考えていく中で、前任校だと当たり前すぎて議論にもならなかったようなことが、ここでは議論になる。「違う職場に来たんだなあ…」ということをひしひしと感じる日々でした。

ちなみに、写真は話題に関係のない小諸・布引観音。切り立った崖の中にある釈尊寺が美しい絶景です。

でも同時に、それは「この人たち、プロだなあ…」と感じる一週間でもありました。幼児教育や初等教育に関わって来た人たちの、「子どもから始める」「それを適切に見とって彼らの学びを深めていく」プロフェッショナリズムを、少なくともプロであろうとする意思を、痛烈に感じました。また、風越学園が幼児教育から始まる意味を考えると、そこを根っことして大切にしつつ、それにどう接続して中学生の学習を豊かにしていくのかという姿勢で臨むことが大切なんだな…対話の中でそういうことも感じました。

ハッティ『教育の効果』を読んでも、最近読んだ『7つの神話との決別』を読んでも、進歩主義的な学習観の「費用対効果」って、実はあまりよくありません。特に『7つの神話」本では、風越学園がやろうとしていることへの直球の批判もあるので、気になっています。

カリキュラムをデザインするときに、生徒を出発点にしてどこまで作れるか。そうした時に、何がこぼれ落ちるのか。学力はきちんと形成されるのか。例えばプロジェクト学習一つを取っても、High Tech Highのプロジェクトのように、教師発の、学習内容がしっかりデザインされたプロジェクトと、子供の興味を出発点としたプロジェクト。どういう風にプロジェクトを設計するべきか。ここのところ、その疑問がずーっと頭の中を渦巻いて、スタッフと議論を繰り返していました。

でも、この辺でその疑問をいったん置いて、もう一歩前に進めようと思います。「本当にこれでいいのか」という迷いが消えることはないけれど、こうして議論している風越学園のスタッフは信じられる。おそらく、どんなカリキュラムデザインよりも教育の効果にも最も大きな影響を及ぼすのは、教員の力量と熱量です。力量と熱量を持った人がデザインして運用した時に、初めてカリキュラムはその内実を持つ。ハッティの本でも、教員が与える影響の大きさを強調していました。そして僕は、力量も熱量もある人たちと一緒にいる。である以上、彼らを信じて一緒にいまのカリキュラムデザインを精緻化しつつ、僕は僕のするべき仕事をしよう。具体的には、きちんと読み書きの力を鍛えて、子どもたちが自分の力で探究の森に分け入れるようにすること。こんな風に、自分の目線が一歩前に進んだ一週間でした。

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