「作家の時間」は、出版後の時間を過ごしています。今日のエントリでは、出版後のイベントの一つ、ファンレターとその返信の取り扱いについて、改めて見直してみます。
「出版後」に時間をかける、僕の「作家の時間」
僕の「作家の時間」は、出版後にけっこう時間をかけます。一緒の製本作業からはじまり、「出版記念オーサーズトーク」とその準備、書き出し選手権の結果発表発表と乾杯。そして読み合ってのファンレター(+並行しての保護者へのファンレター依頼)と、その返信を書くところまで。別に「作家の時間」(ライティング・ワークショップ)自体がこのフォーマットを持つわけじゃないので、あくまで「僕の」作家の時間の特徴の一つ、だとは思います。そして、どうしてそうしているのかは、以前に下記のエントリに書きました。要するに、書き手意識を持つことをゴールにしている僕の実践においては、「書いた作品をどう扱うか」のほうが、「どう書かせるか」よりも大事だと考えているのですね。
「ファンレター」と、「ファンレターへの返信」の位置付け
その中で「出版記念オーサーズトーク」と並んで大事な位置付けを占めているのが、「ファンレター」と「ファンレターへの返信」です。どんな目的でそれを実施しているのかは、下記エントリに書いています。
ファンレターの「影」の部分
しかし、どんな実践にも光と影があります。このファンレター、当然もらう枚数が多い子と少ない子が出てきてしまう。最初の一枚はライターズグループのメンバーに書くことで、もらえない子が出てこないようにはしているのですが、それ以上になると当然枚数の多い子、少ない子が出てくるのですね。こういう仕組みである以上はそれは仕方ないことだし、実はスタッフからすると、ファンレターが多い作品が優れた作品かというと、あまり関係なかったりもするのだけど、子どもはそうは思えないわけですよね。なんだか多いほうがえらいような気持ちになる子もいるでしょう。
子ども心にはやはり枚数が多いと嬉しいのが当然なので、仲の良い友達同士で送り合う、言い方を変えると「ピア・プレッシャーのもと、友人関係の維持のためにファンレターを書く」現象も、実際には起きているな、と思います。たとえば、「え、誰々が私に書いてくれたの?じゃあ私も書かなきゃ」という子が毎年のようにいるわけです。
ファンレターをもらえない子が、意欲を失う問題
また、枚数が少ないならともかく、全くもらえないのはさすがにさびしいもの(この場合、僕からのフィードバックは「当然もらえるもの」なので、カウントされてないようです…汗)。僕は実は、保護者にもその都度の状況をお知らせして、保護者からのファンレターがゼロの子は極力出さないようには努力しているのだけど、どうしても完全にはできなくて…。
実は、昨年度、ある子が、「作品集で、ファンレターを親からしかもらえなかった」ことを理由に、「読んでもらえないのになんのために書いているんだろう」という気持ちになり、書く意欲を失ってしまったことがありました。僕の教室で実際に起きているこういう問題に、一体どう対処すればいいのでしょう?
皆がファンレターをもらえることを徹底する?
一つの方法は、「全員がもらえること」をさらに徹底して、呼びかけをさらに強化すること。しかし、率直なところ、今以上は正直苦しい…。現時点でも僕は積極的に呼びかけているし、仮にさらに徹底したら、ファンレターが完全に「義務感で書くもの」になってしまうからです(現状でも、保護者にそう感じさせているかもれません)。それに、この方向をつきつめたとしても、今度は「もらえる/もらえない」ではなく、枚数の「多い/少ない」に意識の焦点が移り、そこでの競争が強化されるだけになる気がします。
逆に、ファンレターをやめてみる?
これもちょっと考えたのだけど、結論としては継続したいと思っています。実際、ファンレターが子どもたちにもたらすプラスの影響もとても大きいのです。加えて、ファンレターへの返信を書くという行為がもつ「コミュニティづくり」の側面も、僕は大事にしていきたい。としたら、ファンレター自体はやはり続けていきたいのが本音です。「影があるから光もなくそう」となったら、何もできなくなってしまうのだから。
そうすると、「やめる/やめない」とは違う次元で、この「ファンレター問題」を考える必要がありそうです。
「ファンレター問題」の本質は何だろう?
そもそも、この「ファンレター問題」の本質はなんでしょう? ファンレターの枚数競争が起きる問題や、「もらえないからやる気がなくなる」問題は、とどのつまり、「書くことが、教室の人間関係に負けている」ことで起きる現象です。あるいは、「他者とのコミュニケーション手段としての書くことに、スポットライトが当たりすぎている」現象とも言えるでしょう。
こう言い換えると、僕がこの「ファンレター問題」にモヤっとしている理由がもう少しクリアになってくる気がします。そもそも、書くことには、コミュニケーション手段としての側面もある。でも同時に、書くことが自己内対話を促したり発見の契機になる側面もある。実践家としての僕は後者の側面(書くことが発見につながる側面)を大事にしているはずなのに、実際にはファンレターという、書くことのコミュニケーション手段としての側面を利用しようとして、しかもその弊害にも直面している。いまの自分が直面しているのは、そういう状況なんだと思います。
特に、「書くことが、教室の人間関係に負けている」事実は、書くことの教師である僕としては、ちょっと悔しさを覚えるかも(笑) でもこれ、そもそもいかにもな小学校の担任の先生だったら「負け」と捉えることすらないと思うんですよ。それを「負け」と表現するところに、僕自身の書くことの教育のこだわりがあるんでしょうね。
だとしたら、書くことのもう一つの側面、Discovery Writing(発見の手段としての書くこと)の側面に、もっと光をあてることで、この弊害を少しは緩和できるのかも…と思ったり、いや、それは単に自分の書くことの教育のこだわり、言い換えたらエゴであって、子供達にとっては書くことはコミュニケーション手段(にすぎない)で良いのか…?とも思ったり。
とりあえず、子供達に聞いてみよう。
はじめは、「苦しむ子をどうしたらいいかなあ」を考えたくて書き始めたたこのエントリ、だんだん当初の思惑よりも風呂敷が広がってきたので、いったんここで畳んでおきます。結論は出ないままだけど、書きながら、「そういえば子供達はどう感じているんだろう?」ということもふと気になってきました。次のファンレターを書く時間のミニレッスンでは、「ファンレターの光と影」について、子供達に聞いてみようかな。ちなみに僕は「正解は子どもが知っている」派ではないので、なんでも子どもに聞けばいいとは思ってないし、聞いてもそれに従わないこともあるんだけど(笑)、でも、今年はいったん子どもの声を聞いて、それをもとにさらに考えてみようと思いました。
というわけで、書き始めた時には思いもよらぬ着地点ですが、これこそがDiscovery Writingの醍醐味、という言い訳を残して、いったんエントリを締めくくります。では!
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