「自分も教室で書く」をはじめて、数日たった今の覚え書き

今年の「作家の時間」は最初のユニット(ラッキーディップでの作品制作)を終え、ユニット2「真似からはじめて、」に入っている。今日のエントリはまだ前半のそのユニットについてさらりと。

軽井沢はいま新緑のいい季節です。一気に緑が増えてきました。「五月の空には/風がとっても似合うから」(かぜよふけふけ)とか、「五月のそよ風をゼリーにして持って来て下さい」(立原道造)とか、そういう言葉の似合う季節です。

目次

ユニット2「真似からはじめて、」

この「真似る」ユニット、2年前にもやったことがあるけど、その時は一年の最後にやった。やりながら、「いや、これは最初にやるべきだった」と思って、今回は本格的なユニットとしては最初の五月に持ってきた。『君の物語が君らしく 自分をつくるライティング入門』でも何度か書いているように、僕は「真似」を推奨している。理由は、

書くことは、あなたの「中」にあるものを、「外」に出す営みではありません。むしろ、「外」にあるものを、書くことを通して、本当にあなた自身の「中」に取り入れることなのです。(p34)

という言葉そのままで、「中」にあるものを出そうとすると苦しくなってしまうだけでなく、何かを真似ようと書くことで対象の理解も深まるし、読むことと書くことをつなげることができるからだ。これは、ライティング・ワークショップとリーディング・ワークショップをばらばらにしないためにも、早めに伝えたい、とても大事な姿勢だと考えている。今回はユニットのタイトルを「真似」ではなく「真似からはじめて、」にしたように、ただ真似するだけでなく、そこに創意工夫を付け加える。首藤先生の言葉でいう「翻作」のユニットでもある。

いまのところ、昔話をちょっと変える子が多い。他には、詩を一部変える子も、物語のキャラクターを猫からハムスターにする子も、SPY×FAMILYの構造(お互いの正体に気づいていない)を使おうとする子もいて、さまざまだ。

教室で、実際に書いてみる

先日のエントリで書いたように(下記参照)今回のユニットから、「書く時間」には僕も教室で書いてみることをはじめた。

「しばらくカンファランスとその記録をやめてみる」宣言

2024.05.01

これまでも「作家の時間」の出版スケジュールに合わせて作品を書くことは怠っていなかった僕だが、授業中のこの時間はいそがしくカンファランスにまわっていたので、授業中に本格的に書くのは初めてかもしれない。「書く時間」がはじまって、子どもたちがだいたい自分のポジションを見つけたら、空き席を探して座る。教師用の机じゃなくて、子供たちの中に入って座る。最初は、「書いている姿が子供たちに見えたほうがいいかな、その方が、教師が書く姿勢を示せるし、もし彼らが僕に聞きたいことがあったときにもすぐに見つかるから」と思って教師用机で書いたけど、しっくりこなくてすぐにやめた。

書くことは楽しいから、すぐに時間がすぎてしまう。5分くらいは教室をうろうろするようにしている。でも、パソコンは持ち歩かないで、「今日は誰々に聞こう」とターゲットも定めないで、あてどなくふらふらする感じで。この時間は、正直、まだ落ち着かない。うろうろしているうちに、オーサーズ・トーク(僕のクラスでは共有の時間をこう呼んでいる)の時間がやってきて、その日の書き手にインタビューをして、授業が終わる。

本当におぼえられない…

ここ数回で早くも露見しているのが、僕にエピソード記憶力が本当にないことだ。メモをとらないと誰とどんなやりとりをしたかが、まったくわからない。誰のこともほぼ覚えてない。ひどいのは、オーサーズトークで誰がどんな話をしたのかさえ忘れてしまうことだ。緻密なカンファランスでひとりひとりを追いかけるのとは違うアプローチを試そうとは思ったものの、今のままだと本当にまっしろになってしまって、「やっぱり自分が記録を細かくとっていたのは、自分なりのやり方だったんだな」と早くも思うようになった。授業後に、ぽつぽつと思い出したのは、その時にメモをとっている。空白ばかりのカンファランスシート。空白があると埋めたくなるけど、ここだけは我慢しよう(笑)

自分らしい授業を目指したい

こういう授業になることで、どんな変化が起きるかは、すでに見えていることと、そうでないことがある。少なくとも、自分のコントロールは確実に弱まる。僕が把握できる部分は減り、空白や余白が教室に生まれるだろう。それが、下手をすると「緻密」になりがちな自分の授業設計にポジティブな変化を与えてくれないだろうか。でも、どうなるかはよくわからない。下手をすると、丁寧さという自分の良さを殺すことにもなるかもしれないから、不安もある。

もう一つは、その不安と逆のようだけど、「書き手」としての自分の強みを追求した先に、もっと良い授業に出会えるのではないか、という期待。自分は根っからの「教師」ではないな、という自覚を最近は深めている。ふりかえると、その自覚がはじまったのは、去年の秋に仕事が膨大できつかったときに、軽井沢ブックフェスティバルで元気をもらったことが大きい(下記エントリ参照)。

やっぱり本が好き!軽井沢ブックフェスティバル2023、参加してきました。

2023.09.25

今回、ブックフェスティバルに参加して、本をいかに人に届けるかという仕事をしている人たちとたくさん接したことで、やっぱり自分は「本の届け手」でありたいのだな、と感じた。それはきっと、子どもの頃から本が好きで、自分でもお話をたくさん書いていた小学生時代の原体験から真っ直ぐに繋がる、僕の人生を貫く感情なのだろう。今回、編集者、出版社、ブック・コーディネーター、装丁家など、本を生み出し流通させる仕事に関わる多くの方と出会った。他に教員はいなかったけど、でも僕はこの人たちに仲間意識を抱いた。僕も、彼らの中のひとり、届け手でありたいと思う。ただ、彼らの多くと違って、僕の場合は、本を届ける場所が「教育現場」であり、届け先が、小学生から高校生の若い読み手たちなのだ。

そのエントリでも書いたけど、自分は「読むことや書くこと」を中核に置くがしたくて、そのエリアが「教育部門」なのだと思う。例えば、子どもが好きな小学校の先生と違って、中核に「教育」や「子ども」がいるわけではない。僕の中核にあるのは、書く営みや読む営みへの興味や愛着だ。

そういう自分の思いや強みを活かして、自分らしい良い授業を追求ために、今回の「書き手としてすごす」時間は大きな意味がある。そのことと教育としての効果は、直感的にはきっとどこかで結びつくはずなんだけど、実際問題としてどう両立させるか、今年は模索していけたらいいなと思う。

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