新年度がはじまった。イギリス旅行で仕事が溜まっていたのに加えて、相変わらず体調がよくない。めまいを起こして保健室で寝たりしながら、授業も分掌仕事も無事にこなしてなんとか欠勤せずに生き延びた…という新年度第1週。疲れてしまって読書も勉強もできていない。新しいチャレンジもない。情けないけど、ここしばらくは欠勤しないことを目標に「しのぐ」時期なのかなあと思う。低空飛行だけど、墜落だけはしないように。
と、わりと必死で一週間を過ごした最後の金曜。今日は最後に「ごほうび」をもらった気分だった。というのも、インタビュー記事を書くことをお仕事にしている方から、仕事にまつわるお話を聞くことができたのだ。自分用にメモしておこう。
目次
話し言葉から書き言葉へ
まず、インタビュー記事を書くという「出来事」が面白い。もともと話し言葉と書き言葉には相当なギャップがあるので(下記エントリ参照)、「話したまま書く」ことは不可能である。
また、話し言葉は支離滅裂で、同じことが繰り返されるし、論理的にも破綻しているので、書き言葉にするときにどうしても直さないといけない。それを、どこまで直し、整理すべきか。論理的な方が読み手にとって読みやすくはあるが、話し言葉での、そこで言葉が生まれててきたという雰囲気は失われてしまう。読者にとっての読みやすさと、その話し手の実際の語りのバランス。その、ちょうどいい塩梅のところを見定めるのは大変なんだろうなあ。
相手の中に「入っていく」
問題は、単に話し言葉を書き言葉に定着させる点のみにあるのではない。インタビューは、話し手と聞き手の交流の中から生まれるものでもある。僕もエクセター大学の授業でインタビュー実習があって、その時に読んだ「インタビュー=Inter Views」というクヴェールの本が、とても面白かったのを覚えている。インタビューは「話し手と聞き手の相互作用」であり、話し手だけでなく、聞き手側のあり方が全てインタビューに影響する。だからインタビューをするとは、自分を知るプロセスでもある。
おそらく、どんなインタビューでも基本は同じのはず。今日お会いした方は、非構成的なインタビューを通じて「相手の中に入っていく」、という主旨のことを述べていた。そこはやはり二人だけの空間だからできることで、これがもう一人加わったりすると、全然状況が変わってしまうのだそうだ。
話し手と聞き手のバランス
クヴェールが「権力関係」と呼ぶ話し手と聞き手の交渉は、インタビュー後の原稿のやりとりでも起きる。インタビュアーが話を聞いたうち、実際に記事にするのは全体の一部分のみ。話を聞いた中で、最も面白く、惹きつけられた部分を記事にしていく。そして、読者にもわかりやすいように整理していくのだけど、いったん書いた原稿を話し手に見せると、大きな修正がなされて返ってくる。中には、確かに自分が言ったことなのに、それを全く違う風に直してくる話し手もいるという。
この辺も面白い話だ。話し手も、インタビューの中ではうっかり話してしまったけど、でも公にされて欲しくない情報というのが、きっとあるのだろう。
書き手だけでなく、読者とも向き合う
インタビューの聞き手=書き手は、こうして話し手との関係を構築して共同で文章を創作しつつ、同時に読者の方も向かなくてはいけない。読みやすさはどうか。どの程度の長さなら読んでもらえるのか。読み手の合いの手をどの程度再現すると読みやすいのか…。「インタビューを書く」とは、話し手と読み手の両方と交渉しながら文章を書き上げるという、とても複雑な営みなのだなあ。
こうしてやっと書き上げたインタビュー記事は、いったん書き手の手を離れる。そこからは、インタビュー記事の評価は読者の手に委ねられることになる。例えばPVの数値だけに還元されない、そして単に「話の面白さ」だけによらない、インタビュー記事の良し悪しの基準というものがあるのだろうか。あるとしたら、それは一体何なのだろう。答えはわからないけど、興味深い問いだ。
ライティング・ワークショップの1ジャンルとして
考えてみると、もう随分前に、「インタビューをして記事を書く授業をやってみたい」と思ってたんだよなあ。全然具体化してないのが良くないけど。
自分でも書いてみて、色々と違和感を感じてみたい。ライティング・ワークショップの1ジャンルとしてのインタビュー、いつか挑戦してみたいなあ。