「話す」ことが「書く」ことの足場がけになることは、よく指摘されているし、きっといろいろな研究があるのだと思います。僕が以前に学んだエクセター大学大学院のライティング研究センターでも、Using Talk to Support Writingという本を出していました。でも、子どもたちの様子を見て、「話す」と同じくらい「書く」助けになると思うのが「描く」こと。今日はそれについてのエントリです。
イラスト入り作品が多数!3・4年の作品集
2月上旬に出版をした5・6年に続き、2月下旬には、とっくん(片岡利允さん)が担当する3・4年生も今年度最後の作品集を出版。先日の「ことばブランチ」ミーティング(=国語科教科会)では、とっくん中心にその3・4年生の作品集を一緒に読んでいました。
その3・4年生の作品集で印象的なのが、絵(イラスト)入りの作品の多さです。別に物語を書く子にとどまらず、エッセイの子にも挿絵をつける子は少なくない。それだけで「描く」ことが「書く」ことに大きな影響を与えていることがわかります。書くことの前に話すことが有効な足場がけになるように、とりわけ低学年〜中学年の子にとっては、「描く」こともまた、「書く」ことの大事な足場がけになっている事実を、僕たちはまず受け入れないといけません。「描く」ことは本当にパワフルな「書く」方法の一つです。
「描く」はどんなふうに「書く」をサポートするのか?
「描く」とき、子どもの中で何がおきているのでしょう。日本でも外国でも、きっと研究はなされているのだと思うけど、最近の僕は実践の沼につかってしまって読んでいません。でも、一番多いのが、作家ノートに物語のキャラクターを描く姿。彼らは、キャラクターを絵にすることで、徐々にどんなキャラクターにするかイメージを固めている。描きながら人物像を考えている感じです。他にも、地図や人物相関図やら、いろいろな「描く」が「書く」の準備段階で起きています。
そして、最初に書いた通り、アイディアを考える時だけでなく、実際の原稿用紙に書く時も挿絵を添える子は多い。もともとお絵かきが好きな子は、文章を書くよりも絵を描くことを楽しみに過ごしている子もいる。字よりも絵が中心になって塩梅が難しい場合もあるのだけど(笑)、だからといって「絵は禁止」とでも言ったら、描くことが書くことに与える好影響もなくなってしまうでしょう。
そして、単に「楽しい」だけでなく、文字での表現や言語表現全般が苦手な子にとっては、「描く」は大事な表現のツールになる。僕たちスタッフも、絵を見てそれを指差しながら質問することで、書き手(描き手)の内面世界をうかがい知ることができます。
また、僕自身は、作品を書くときに観察するために「描く」こともします。例えば、昨日のとっくんの実践ラボ(この話はまた後日)で、各自が文章を書いてみる時間があったのですが、そこで僕は自分の左手を観察して絵に描きました。よく見て描くことで、だんだん手が手ではないように見えてくる。描いているうちに、「手」という概念的な枠組みがはずれて、ようやく別の姿が見えてくる。そこで気づいたことや発見したことを文章にする….。そんなふうに、世界の見え方を変えるために描いて、そこから自分の作品を書いていくこともできるでしょう。
「描く」はどんなふうに「書く」をサポートしているのでしょうか。きっとまだ他にもある。いくつかのパターンもありそう。自分にはまだ見えていないけれど、ご存じの方がいたら、ぜひ教えてください。
ある6年生の話:「描く」が「書く」を導くとき
ある6年生の話です。4年前の開校まだまもない頃、当時風越学園2年生だった彼は、「作家の時間」でも絵を描いて過ごしていました。当時彼を担当していたとっくんは、無理に文字を書かせようとせず、もちろん絵を描くことを禁じることもせず、ひたすらその絵につきあって話を聞いていたそうです。
僕は5年生になって彼を受け持ちました。彼は読書家で、とりわけ風越学園内のありとあらゆるファンタジーを読んでいるのではないかというくらい読んでいるのですが、でも、字を書くのが嫌いなのと面倒くささもあって、ほとんど文章を書くことはしませんでした。「手書きは嫌だ」と強く言ってパソコンを使いたがるのですが、だからといってパソコンなら集中して書けるわけでもない。5年生の間はそんな期間だったように思います。
その彼に変化がおきたのは6年生になってから。作家ノートに黙々と絵を描き始めたのです。それは、彼の頭の中にあるファンタジー世界の地図でした。作家ノートにたっぷり時間をかけて地図を描きながら、彼は、少しずつパソコンで文字を打ち始めました。今年の彼はそうやって書いたファンタジー世界の物語を三回改訂して、その都度、分量を増やし、内容も作り替えています。2年生の頃には絵を描くだけだった彼は、6年生になって、そうやって文字での表現にも集中して向かうようになったのですが、そこでもやはり起点は「絵を描くこと」だったわけです。絵を描くことの大きな力を本当に痛感します。彼が2年生のときに「絵を描く」という表現手段をつぶさずにつきあってくれたとっくんがいたからこそ、その経験が、4年後に文字を書くことにつながったとも言えるのかもしれません。
そして、このエピソードは、彼を2年間受け持っていた僕にとっては、反省させられるものでもありました。5年生のとき、彼は手書きが嫌だと言ってChromebookで書きたがったのですが、結果的にそれが絵を描くことから彼を遠ざけてしまった側面もあったからです。Chromebookだとペイントアプリを使わねばならず、絵を描くのが相当面倒になりますからね。彼がそう望んでいるからという理由でデバイスを与えることが、結果として5年生の彼によくない一年間をすごさせたのかもしれません。もちろん、その一年間を経て、6年生になった彼が自分の意思で作家ノートを手にとったことに大きな価値があるとも考えられるので、単純にどっちが良いと断定できる話ではありません。でも、もし当時のぼくが、とっくんの彼との付き合い方を知っていたら、「まずは作家ノートに絵を描こう」と提案できていたかもしれないな…と思います。
「描く」こととChromebook利用のバランス
絵を描くことが、書くことのサポートになることを実感すると、「Chromebookを使うことと絵を描くことの親和性の低さ」が気になってきます。風越学園では5年生から学校のChromebookを貸与されます。別に手書きで書いても良いのですが、56年の2年間でタイピングはできるようになってほしいというこちらの願いもあるし、何より多くの子はデバイスの「魅力」に囚われて、Chromebookで書くことに挑戦しはじめます。
ですが、Chromebookを使うことは、同時に「絵を描く」というサポートを捨てることにもなりかねないのですね。まあ、ペイントアプリでがんばって絵を描く子はいるのですが、それもけっこう時間がかかって面倒なので、絵を描く子は激減します。そのことのマイナスって、僕はこれまで無頓着でした。
もう少しつっこんで言えば、ChromebookでGoogleドキュメントで書くと、ただ文字を連ねるだけで、「描く」を含んだデザイン性全般が低くなってしまう事実にもつきあたります。このことも、最近、別の6年生男子の子に気づかせてもらいました。
彼も文字を書くのが苦手な、というか嫌いな子です(なんかそんな子ばっかりだな、とか言わないでくださいね)。でも、絵を描いたり造形をしたりする才能はピカイチで天才的。その彼は今回、他のスタッフのサポートもあって、音声入力で「作家の時間」の作品を書いてきました。僕からすると「文字を書くのが嫌いなら、今後も音声入力を使えば…」と思いたいところなんですが、でも、肝心の彼がその作品に不満げなのですね。それは、「美しくない」からです。「文字ばかりで黒くてベタッとしてる」と言っていました。ああ、彼は本当にクリエイターなのです。本当は絵を入れたり余白を入れたりして、もっとデザイン的に良いものをつくりたいのです。でも、単機能なChromebookではそれができない。だから、手書きも嫌だけどChromebookで音声入力をするのも嫌…というわけでした。彼の場合は、中学にあがってもっと高機能なパソコンを手にいれることが、解決策になるのかどうか、はたして…。
もっと意識したい、「描く」ことの力
ちょっと話題がずれて、最後はデバイスの話になってしまいました。でも、描いて考えたり、挿絵も含めて作品をデザインしたりすることが、手書きからchromebookに移行するとやりにくくなってしまうことには、留意が必要そうです。もしかして、大人もパソコンで書くことがメインになってしまって、「描く」ことのメリットを捨ててしまっているのかもしれない。
もちろん、パソコンでの文字入力は、分量が増えることや書き換えが容易なことなどのメリットも大きい。だからパソコンがダメなんていうつもりもありません。でも、「描く」ことがとりわけ若い書き手たちに大きなサポートとなることを考えたら、パソコンへの移行期である56年を担当する僕としては、「描く」ことの大きな力を、もう一方では忘れずに大事にしたいなと思いました。
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