公開講座「詩の書き方は教えられるか」終了、動画は11月10日(火)まで公開

僕がコーディネーターを務めた全国大学国語教育学会2020年秋期大会(オンライン)の公開講座Ⅱ「詩の書き方は教えられるか」、無事に終了しました。いや、参加・視聴してくださった方はご存知の通り、ワークショップではトラブルもあって無事ではなかったのですが….(笑) ともあれ一つの区切りを迎えたので、今日はその振り返りです。

目次

動画は11月10日(火)まで公開

まずは、当日の公開講座の動画はこちらです。2020年11月10日(火)までの公開となっていますので、よかったらご覧ください。トラブルも含めて公開されています。前半はオンラインでのラッキー・ディップ、後半は、竹本寛秋先生、児玉忠先生、後藤和彦先生をお迎えしての質疑応答が中心でした。進行としては、反省しまくり。オンラインのワークショップのトラブルもそうですが、後半もほとんど自分が一参加者として聞きたいことを聞いている…いやはや力不足です(汗)

関連して、3人の先生方の事前公開動画もあります。下記リンク先からたどれますので、まだご覧になっていない方は、ぜひどうぞ。

[お知らせ]公開講座「詩の書き方は教えられるか」の関連動画、「『詩の作り方』をめぐる歴史性」

2020.10.22

[お知らせ]公開講座「詩の書き方は教えられるか」の関連動画、「学校・教室で詩の書き方を教えるということ」

2020.10.19

[お知らせ]公開講座「詩の書き方は教えられるか」の関連動画第3弾、「詩が生まれること 困難さの超克とその意義」

2020.10.25

教室で詩の書き方を教えるということ

今回の講座、タイトルからもわかるように、登壇者の一人である竹本先生の論文「詩の作り方を教へることはできません」をきっかけに企画しました。当初の企画意図としては、様々な「詩の書き方」の教え方をいったん歴史の上に置いて相対化してみよう、自分たちの実践を歴史性の軸で見直してみようという点にあったのですが、その目的は事前の公開動画である程度果たされ、公開講座では、教室現場で詩の書き方を教えることがもたらす問題に焦点が当たる結果だったと思います。

詩を書くことを教える教師の立ち位置

とりわけ、大事なのは教師の立ち位置。児童詩を「教師と生徒の二人による合作」として捉える児玉先生は、まず教師が子どもに教える事実を重視します。単に引き出すだけでなく、何らかの教育的意図を持って教える。しかし同時に、詩作であるからには、子どもは教師の教えを裏切り、予想外の表現を生んでいく。そのような緊張関係をはらんだ二人による合作として児童詩の創作を捉えるわけです。(たしかに、レポート作成と比べると詩の方が、生徒の作品が教師の予想を超えることが多そう)

この緊張関係は、一方では、竹本先生が指摘した大正期以降の詩の教授不可能性の言説と結びついて、詩に関心のない教師を詩の創作指導から遠ざけ(「教えられないから」「不安だから」)、一方では詩への関心が強い教師にとっても、詩を教えることを難しくする。

そのような矛盾を孕む「詩を書くことを教える」行為を、なぜわざわざするのか。そこにはどんな意義や教師の動機があるのか。公開講座でも、そこが一つの焦点になって、実作者でもあり教師でもある後藤先生が、僕と児玉先生からその動機を問い詰められ(?)、竹本先生が補足する局面が見られましたね。後藤先生のような、自らも詩人であり詩を教えたい教師が、自分の詩に対する見方を持っていても、実際の授業では、それを押し出さず「あれもこれも」と「禁欲的」に授業をせざるを得ないのは、面白いなあと思いました(「あれもこれも」なのに「禁欲的」なわけです)。

しかし、その「誠実さ」はかえって、詩の書き方を教える根拠を損ねる可能性もある。例えば、詩を教える根拠を学習指導要領に求めれば求めるほど、今度は、「指導要領で書かれているその力を育てるために、なぜ(他の評論や物語ではなく)詩でなければならないのか」という別種の問いがもたらされる。それにも「詩には色々なレトリックが使われている」「短くて書くサイクルを何度も体験できる」などの優等生的な返答はできるものの、その方向性で論陣を張れば張るほど、固有のジャンルとしての詩の価値を毀損することにもなりかねないのではないか…そんな思いも頭をかすめました。

僕自身は、詩を書くことを教える価値は、詩を書くことを通じて、言葉が自分の意図を超えて独自の価値を持ち始める体験をするところにあると感じています。自分が言葉を意識的に書くというよりも、言葉に書かされる体験。竹本先生の見取り図でいうと、僕はやはり昭和期以降の詩創作観の影響下にあって、「思ったままを素直に書く」よりも、ある程度自立した存在としての言葉とたわむれる経験に詩の本質を認めているのでしょう。関連して、詩には良し悪しがわかりにくいだけに、結果を気にせずに言葉そのものとたわむれることができるメリットもある。

詩を書く授業の難しさと意義について。参考になるブックリストつき。

2020.05.06

しかし、その価値を全く認めない人にその論陣を貼るのは難しい。児玉先生は「なぜ他のジャンルではなく詩なのか」という問いに「言語文化」というスタンスでお答えになっていましたが、そうすると古典の必要性みたいな話とも通じるところがあるのかな…。

教師は「鑑賞のトップランナー」であるべき

もう一つ、教師の役割として印象的だったのは、児玉先生の「教師は鑑賞のトップランナーであるべき」という言葉でした。振り返る意識が弱い小学校低学年の子どもにとっては、作品は蝉の抜け殻のようなもので、作品自体の価値を感じることは少ない。一方、それができる高学年になると、今度は自意識が邪魔をして実名交流が難しくなる。そこで、(例えば匿名にするなどして)個人の生活の文脈と切り離して、詩の言葉そのものだけを取り出し、その良さを教師が評価できることが大事だ、というご指摘でした。これは、本当にそうですね。僕は日頃、生徒の作品の良さを、それまでのエピソードと結びつけて評価できる石川晋さんや甲斐利恵子先生を非常にうらやましく思っているのだけど、プロセスを評価するだけでなく、同時に、作品そのものの良さを言葉で語れることもとても大事。その両方ができるといいなあ。

どうもありがとうございました!

今回の公開講座Ⅱ「詩の書き方は教えられるか」、本当に多くの方々に支えていただきました。こちらの企画趣旨にご賛同くださり、事前から丁寧なやり取りを重ねてくださった3名の登壇者の先生はもちろんですが、これ以上ないほど心強くサポートしてくださった研究部門委員の先生方、オンライン・ラッキーディップの開発に協力してくれた国語の勉強仲間の皆さん、当日、不手際だらけだったワークショップで頼りない僕を支えてくださった参加者の皆さんなど、多くの皆さんに支えられた公開講座だったと思います。また、「一般の方に知見を還元する」という公開講座の主旨を活かすべく、オンラインでの公開講座の可能性も色々と試すことができました。これが、今後のオンライン学会の可能性を模索する一つの手がかりになれば嬉しいなと思います。関係の皆さん、心からお礼を申し上げます。どうもありがとうございました。

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