「子どものことがわからないのは、子どもに興味がないから」?

8月。風越学園では「風越ワークショップ」という保護者・子ども向けの体験会を、合計30回開催中です(この時期ちゃんと夏休みで勉強ができた去年までの日々が懐かしいよ…)。今日はそこからの雑談エントリを、読んだ本の紹介も交えつつ。


トップ画像は、軽井沢からほど近くにある群馬県安中市にある「めがね橋」。碓氷峠を鉄道で越えるために明治時代に作られた近代化遺産です。

「書くのが嫌い!」な子への保育スタッフのタイプ

先日、この風越ワークショップの中で、僕もライティング・ワークショップの体験会をした。絵本の読み聞かせからお話のタネを探すワークをしたのだけど、そこで、「書くの嫌い!」と言って全く参加しようとしないある小学生男子がいた。僕が「わあ、むっちゃ嫌がってる。無理やりやらせるのも良くないし…」と手を打ちあぐねていたところ、ある保育スタッフの女性がその子に関わり始めて、最後にはその子と一緒に文章を書いていた、という一コマがあった。あとの振り返りで、そのスタッフは、

嫌だ嫌だとは言ってたけど、私がそばに行って「どこか行こうかなー」とつぶやいても、ついてこないんだよね。だから、ここにいたい気持ちはあるんだ、葛藤があるんだなと思った。

と言ってて、そこからどうやって一緒に書くようにしたかを話してくれたのだけど、書くのを嫌がる子にそういう言葉がけから入るのってホントすごいなと恐れ入った次第。書くことについての知識自体は彼女よりも僕の方が数段上のはずなんだけど、ちょっとかなわないな。

「子どもから見た世界」を知ることへの苦手意識

僕は中高生を相手にコンテンツの質を柱にした授業をしてきたこともあるし、「まずは知識大事でしょ」「知識ないのに自分で考えてもろくなことにならないでしょ」という僕自身の価値観もあって、どうしても「学習者から見える世界」を見る・想像するというのが苦手だなと自覚している。「今のあなたがどう感じるかはさておき、これは先人が価値あると認めてきた知識なんだから、つべこべ言わずに全て学びなさい」と押し付けたい気持ちがあって、自分の子どもには遠慮なくそう言うし、「教養主義」を掲げる前任校でも似たようなことは言ってきた。まあ、お勉強が得意だった人間特有の知的マッチョ主義なのだろう。

一方、風越学園の、特に幼児教育に関わるスタッフは、みんなごく自然に「子どもから見た世界」「子どもにとっての意味」を考えてるし、子どものちょっとしたことをとても面白がっている。正直なところ、僕には「それ何が面白いの?」と思うことも多々あるのだけど、風越の保育スタッフが、「子どもから見た世界」を楽しんでいることは事実だ。こういう視点は僕に本当に欠けてて、特に今回みたいなケースで、自分の「子どもから見た世界を想像して、そこにアプローチする」弱さを感じてしまう。

わからないのは「子どもに興味がないから」?

こういう時、僕は自嘲気味に「自分は子どもに興味がないなあ」と感じる。これはあながち間違ってなくて、僕はいわゆる社交的な人間でもないし、文字情報に表れない人の気持ちを察するのが苦手なのは確か。また、雑な括りだけど、「学ぶコンテンツに興味がある」タイプの教員と「子どもに興味がある」タイプの両極端のグラデーションの中に教員がいるとしたら、もともとの僕は前者の極に近い(偏見だけど、高校の教員には前者のタイプが、小学校教員には後者のタイプが多いと言ってもあながち間違ってないと思う)。

ただ、「子どもに興味がない」と言ってしまうと、「先天的に仕方ないことでどうしようもない」言い訳として機能してしまうので、ちょっとそれは嫌だなあとも思っていた。

わからないのは「子どもの知識がないから」

そんな時に、赤木和重さんの「目からウロコ!驚愕と共感の自閉症スペクトラム入門」を読み、「子どもの姿に感動するには何が必要か」という一節があり、心を惹かれた。

そこで

一つは、子どもに学ぶ姿勢です。子どもは私たちがもっている価値観をはるかに超える豊かな存在です。子どもを教え込む対象として見ている限り、たとえそれが善意であったとしても、子どもの姿から感動することは少なくなるでしょう。

これはまあ、わかる。僕は子どもを「教える対象」として見る傾向が強いことは、認めざるを得ない。
そしてもう一つ、赤木さんは「発達検査で用いられる「はめ板」課題を例に、次のように言う。

もう一つは、発達や障害の知識、その子の生活の歴史を学ぶことです。…1歳半ばの子どもが、「え〜っと、この円板はこっちじゃなくて、あっちかなぁ」と「〜ではない〜だ」と試行錯誤している様子です。私たちはこの姿を見て、「すごいぃぃぃ!」と思います。それまでには見られなかった新たな発達を創造する姿に感動するからです。しかし、こうして感動できるのは、私たちが「一次元可逆操作」や「〜ではない〜だ」といった発達の知識を学んでいるからです。もし、学んでいなければ、「あ、できた」だけで終わっていたかもしれません。もしくは、「お手つきなしでできるようになるにはどう教えたらいいかしら」と、「さらなる」教え方を考えていたかもしれません。

なるほど。感動を可能にするのは知識なのだ。発達や障害の知識、その子についての知識がないと、その子について感動することもできない。赤木さんはこうした議論を元に、「保育・教育の原点は子どもの姿に感動すること」といい、そのために、発達や障害について学ばなくてはいけないと書く。

こういう言い方をされると、僕にとっては納得しやすくていいなあ。「子どものことがわからないのは興味がないから」よりも「子どものことがわからないのは知識がないから」の方が、よほどトレーニング可能な気がして気分が楽だし、知識大事派の僕には受け入れやすい。知識があれば、子どもを見るときのレンズの解像度が上がって、子どもの世界を想像して、そこに沿ってアプローチするのもやりやすくなりそう。

というわけで、勉強だなー。子どもの発達についての本を読んで、「子どもの世界が見える」人がどうやって見ているのか話を聞いて、自分でも実践して。先は長い。

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