「教員という役割を外して子どもと出会う」可能性について

先日、軽井沢の医療施設「ほっちのロッヂ」を含む、地域で色々な動きを起こそうとする方々と、風越学園スタッフとのミーティングがありました。誰が参加したとか、どんな内容だったとか、そこはぼかす書き方になってしまうけど、強く印象に残ったことを一つ、備忘録としてここに書いておきます。

写真はエントリの内容とは関係のないスキー場。自宅から車で10分のところにスキー場があることもあって、この冬休みだけで家族で4回スキーに行きました…

ケアの文化拠点を目指す「ほっちのロッヂ」

「ほっちのロッヂ」は、風越学園のすぐ隣に、2020年4月開業を予定している医療施設(診療所、病児保育室、デイサービス施設)。ただ、詳しくはウェブサイトを見ていただきたいけど、いわゆる「医療施設」の枠に収まらない「ケアの文化拠点」を目指す姿勢を打ち出しています。

その「ほっちのロッヂ」スタッフの皆さんのお話を聞いて驚いたのが、2020年の4月の開業を前に、皆さんが9月からずっと、軽井沢の町をとにかく歩き、人と出会っていること。全区長さんのご自宅を回ったり、色々なお店を訪ね歩いたりして、そこで関係を築いている。

その意図について、スタッフの方は概ねこんなふうに語っていました。普通、医療施設は病気になってからやってくる場所。でも、そうすると「病人としてのその人」「弱くなったその人」しか見えなくなってしまう。その人の持つ色々な創造性が発揮されずに、「患者」の枠に押し込められてしまう。

だから、病気になる前から知り合うことが大事。「ケアする人(介護士、看護士)」「ケアされる人(患者)」の関係性を時に逆転させるために、看護士として出会うのではなく、「ただの人」として出会う。看護士として出会うよりも、出会った人が看護士だった、を目指す。それで、春にオープンする前の今の時期に、多くの地域の方と「ただの人」として出会っているのだそうです。

「教員」という役割の中で働くこと

これ、すごく面白くて大事な取り組みだなあと思いました。そして、僕はそういう発想がまるでなかったな、とも。風越学園に来て自分の特性をつくづく痛感するのだけど、そもそもの僕は「学校」というきっちりした枠の中で「教員」という役割を与えられて、「授業」だけに専念できる中で、心地よく働いてきたのでした。自分で「先生は…」と自称することはさすがになかったものの、誰かに「あすこま先生」と呼ばれるのにもそこまで抵抗はない(前任校は伝統的に教員をさん付けで呼ぶ生徒が多くて、それは心地よかったけど)。「教員」という限定的な役割の中で授業のプロフェッショナルでありたい、という気持ちが強いのでしょう。

ただ、僕の嗜好だと、「先生」「児童・生徒」以外の関係性で子どもと出会うことはなくなるし、両者の関係性の逆転も起きにくくなる。そうすると、本当に「児童・生徒」という一面でしか相手を見られなくなってしまう。

関係性を固定したがる理由

もちろん、それでいい、それこそがいいという考え方もあるでしょう。ぼくはもともと、そういう発想でした。教員は、自分が評価権を持つ権力者であることを自覚して、「学校での教員・生徒という役割演技」を超えて相手と関わることはすべきではない。そう思ってきました。「教員−生徒」関係を超えた全人格的な関わりは、一歩間違えると容易に教員による児童・生徒の人格支配に繋がるので、きっちり一線を引いて、教科「国語」の領域に自分の役割を押しとどめたい気持ちを、今も強く持っています。まあ、もうすこし率直にいうと「子どもとフラットな友達ごっこをしたがる教師」が小学校の時にいて、そういう先生が嫌いだったんですね。最後は成績つけるんでしょ、そんな自己満足には付き合ってられないよ、と子ども心に思ってました。こういう過去の経験も、僕が自分の役割を「教員」に限定したがる理由の一つかもしれません。そしてもう一つ、僕自身が対人コミュニケーションが得意なタイプではないので、教員という「役割」を間に一つ挟んだほうがプレッシャーなく人と話せるのも大きいと思います(人と会っても世間話ができなくて、間に本を挟むと話ができる的なアレ)。

 

関係性を流動的にする仕掛け

一方で、「ほっちのロッヂ」の皆さんのお話を聞いて、そのように「教員」「児童・生徒」と役割を固定化することで失われる創造性も確かにあるだろうな、と感じました。一面でしかその子を見られなくなってしまう弊害が、確実にある。そうならないように、関係性を流動的にすることを、皆さんは考えているのでしょう。

どうも僕はその方面への感度が鈍いようです。例えば、僕は同僚をニックネーム(読んでほしい名前)で呼び合う風越学園の文化が気持ち悪くて、最初はとても馴染めなかったのですが、これもまた、関係性を流動的にする仕掛けの一つなのだろうな、と8ヶ月が経って思います。「〇〇先生」と呼べばその人は先生らしく振る舞うし、「〇〇校長」と呼び続ければ、岩瀬さんでさえ世間の校長先生っぽくなってしまうかもしれません。そういう無意識の関係性の固定化を避ける仕掛けとしてのニックネーム。そういう視点が、自分には欠けているのも、確かなこと。

見ているレイヤーが違う?

僕はここで、「関係性を固定化するのがいいか、流動化するのがいいか」という話をしているのではありません。だって、学校という単位で見れば、固定化したほうがいいこともあるはず。少なくともそのほうが、現状では児童・生徒の内面の自由が保障されるケースも多いでしょう。ただ、「ほっちのロッヂ」の皆さんは、いわゆる「学校」や「診療所」という単位で見てはいないんでしょう。一言で、見ているレイヤーが違う、と感じる。もっと根っこの「人が生活する場」というところで考えていて、だからそこにいる人の関係性が自然に流動的になって、創造的になれる場となるデザインを考えている。これは、結局のところ、社会やその中での学校をどう捉えたいのかと関係する話なのだと思います。

開校までに読み直すエントリ

今回のエントリ、Discovery Writing(発見するために文章を書くこと)そのもので、読んでいる人にはなんのこっちゃなところがあるかもしれません。でも、「ほっちのロッヂ」の皆さんのお話は、とても印象深く、自分の考えの好みやその限界について、考えさせられる出来事でした。教員という役割を外して子どもに出会うことの可能性、その危険性。そもそも学校が始まった後にそんなこと可能なのかどうか。やったって、昔の自分が感じた「権力者によるごっこ遊び」にならないのか。それが目指す先に何があるのか。開校まで、折に触れて今日のエントリを振り返ってみたいと思います。

このエントリとは関係ないけど、「ほっちのロッヂ」のウェブサイトの動画で紅谷さんがおっしゃっている「誰かと一人になる」っていい言葉だなーと思いました。僕の妻が結婚前に僕のことを「あすこまさんは、一人で本を読んでいるのを誰かに見てて欲しいタイプ」と言っていたのだけど、まさにそんな感じ。

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