ショック!? アトウェルの学校の卒業生も、高校生になると本を読まなくなるワケ

最近は読書教育についての記事が続く本ブログ(下記エントリ参照)。前回は日本の高校生の読書離れを取り上げたが、今回は「アメリカの高校生も本を読まない」話題をしてみたい。

なぜ違う?いつから違う? 国語の授業の「読解」と、日常の「読書」。

2017.01.06

読書教育の課題は高校生の「読書クライシス」にあり。

2017.01.08

今日の話の出典は、ナンシー・アトウェルが書いた読書教育についての本、Reading Zone。2007年の初版と、今年娘のアンと出した第二版の2冊である。

目次

読まなくなる!アトウェルの学校の卒業生

アトウェルの学校は未就学児から8年生まで(K-8)児童生徒が通う学校。日本でいうとおおよそ小中学生が通う学校だ。本来高校生の話は関係ないにもかかわらず、Reading Zoneには初版(2007)、第二版(2016)のいずれにも「High School」という高校生の読書についての章が含まれている。

そこで書かれているのは、高校生が本を読まないという現実だ。コモン・センス・メディアの2014年の調査によると、アメリカでは17歳のうち約半数が、年に1・2冊程度しか楽しみのための読書をしない

さらに厳しいのは、リーディング・ワークショップに取り組むアトウェルの学校の生徒ですら、卒業して高校に進むと本を読まなくなるという現実である。在学中は年間75冊読んでいたデイビッドが、高校に入ったら一年間で課題で指定された9冊しか読まなくなった。7-8年生の2年間で200冊読んでいたアリスが、高校生だった頃は自分が本好きだったことを忘れてしまった(彼女の場合は、大学に入ってからまた読書好きが復活する)。こんなエピソードがいくつも書かれている。

なぜ読まなくなるのか?

アトウェルはこうして「自分の教育の限界」と見られかねない事実を打ち明けつつ、その原因を書く。卒業生たちは、「高校では学校の英語(国語)の授業と読書が別物になってしまった」と語るのだという。英語の授業では、ほんの一部のチャプターや短いストーリーを宿題として読んで、問題に答えたりディスカッションしたりするだけ(日本の読解の授業に似ている?)。そういう授業が、読書から喜びを、読者から目的意識を奪ってしまった。

ある卒業生は、いま自分が受けている英語の詩の授業について「とてもゆっくりで、全てのメタファーや直喩を明らかにしようとする」と評した後で、次のように語っている。

「多くの時間を使って、僕たちはこの本を理解するには大して重要ではない、ささいな事柄に入り込む。本当につらい仕事だ」

(Atwell and Merkel, the Reading Zone 2nd, p.117)

高校の授業はどうあるべき?

アトウェル(2007)は、高校の教師に対して、「カリキュラム」から離れて、卒業時に生徒にどうなって欲しいのかを考えようと訴える。そして、そこから導かれる結論として、生徒が読みたい本をもっと自由に読ませることの大切さを主張する。細切れの文章を少し読んでは解説するような授業スタイルをやめて、本全体を扱い、何よりも本を読む時間をたくさん取ることが大切だという。

同様に、2016年の第二版でも、アン・アトウェルが高校の英語(国語)教育で留意すべきことを、次のように整理している。

  1. 子どもに選択肢を提供すること
  2. 量をたくさん読むこと。多量の継続的な読む経験が重要。
  3. 読むに値する本を選ぶためのアイデアやひらめきが必要。司書と協働すべき

継続して読む機会を与えることが大事?

この本Reading Zoneを読んで思い知るのは、「いったん読書習慣をつけたら放っても平気、ではない」という現実だ。本に接する環境や時間がないと、多くの生徒は、アトウェルの学校の卒業生でさえ、読むのをやめてしまう。

僕のようにアトウェルの実践に関心を持つ読者は、「そうは言っても、アトウェルの学校の卒業生は別だろう」と思うし、どこかでそう思いたい気持ちがある。なにしろ、リーディング・ワークショップとライティング・ワークショップの実践をリードしてGlobal Teacher Prizeまで受賞した、世界を代表する教育者の一人なんだから。

ことによったらアトウェルにも「自分の卒業生は違う」という思いがあったかもしれない。しかし、実際はそうでなかったことを、アトウェルは率直に吐露している。継続して読む環境にないと、読書家の生徒も、あっという間に読まなくなるのである。

前回のエントリでは、「日本の若者は、中学生までは学校で本を読む機会があるにもかかわらず、高校生になると読まなくなる」ということを書いた。

読書教育の課題は高校生の「読書クライシス」にあり。

2017.01.08
これは、「強制的に読まされても、それを維持する環境に置かれないと、読まなくなる」という点で、今回のアトウェルの卒業生に似ている。

どちらを選ぶ? 2つの選択肢

ここで、僕たちの前には2つの選択肢があるはずだ。「だから高校でも継続して読書をする時間を設けよう」という考え方と、「そもそもそコマでしてやらせる意味あるの? ずっと授業時間を割かないといけないならコスパが悪いのでは?」という考え方。あなたはどっちの考え方? それとも、この問いの立て方自体が間違っているのだろうか。読書教育について考えさせられる、アトウェルの学校の卒業生の「その後」である。

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2 件のコメント

  • 僕は、高校でも「だから高校でも継続して読書をする時間を設けよう」という考えです。

    ただアトウェルの読みたい本を読ませるべきだという主張はその通りだと思いますが、「細切れの文章を少し読んでは解説するような授業スタイルをやめて」という考えは極端だと思いました。テキストをよく理解するには、全体と部分の往復が欠かせないので、このような分析的な授業スタイルを完全にやめるというのはよくないと思います。

    「細切れの文章を少し読んでは解説するような授業スタイル」ばかりな学校教育の現実があるとしたら、そのことが問題なのかもしれないと思いました。

    そういえば、自分が教えた子も、読まなくなる子と読み続ける子がいます。当時はめちゃくちゃ読んでいても、中学校で、合唱部と吹奏楽部を兼部して、もともとやっていたプログラミング、学校の活動も忙しくて、読む時間がないから残念だと今年、教えてくれる子がいました。あと普通に興味がなくなって読まなくなっていく子もいます(学校のことが忙しかったり、遊びなど他にもっと興味があることを選択するようになるのだと思います。でもまた読書に戻ってくるかもという淡い期待もあります)。その一方、こんな本を読んでいるよと、年賀状などで、教え続けてくれる子もいます。僕は自分がリーディング・ワークショップの授業をした後も、同じようにその環境がずっと高校まで続いてほしいなあと思います。高校生くらいになれば、さらに読める本がぐぐっと広がってくるから、本を読める環境と時間と、本と人の繋いでくれる人の働きがあって、世の中の様々な良書に子どもたちが出会えれば、けっこう大きく子どもたちの未来は違ってくるのではないかと思います。

    読む時間がないというのは痛いくらい分かるかもしれないです。コメントを書きながら、あすこまさんの記事やリンクの記事を読んで、僕は中学校までほとんど本を読んでなかったのですが、高校で猛烈に本を読むようになったことを思い出しました。僕は電車でも家でも読んでましたが、国語の先生には、今考えると申し訳ないですが、授業中もずっと読みたい本を読んでいました(国語の成績はテストで平均点以上とっても1になって単位を落としました)。僕はとても自分勝手な人だと思うのですが、当時の自分のリアルな感覚は、他の歴史などの網羅型解説授業もそうですが、学校の授業に自分の本を読む時間が奪われているという感覚でした。退学も何度も考えました。読みたいというパッションがあっても、時間とエネルギーを奪われると読めなくなってしまうと思います。読む時間がないということからも(日本の高校生だったらバイトする子もいるでしょうし)、自由に読む時間(また環境)が授業中にあることに意味があるだろうなあと思います。

    長文コメント、失礼しました。

    • てるさん、ありがとうございます。僕も同じ意見で、少なくとももう少し(個人的には3分の1くらい)読書でもよいと思います。