「書き手」としての自分の経験を伝える意味

高校の現代文は、パラグラフ・ライティングで小論文を書く授業。来週には下書き提出というところだ。ここ一・二年が特にそうなのだけど、作文の授業では「こう書くのが正しい」という言い方よりも、「書くプロセスは個人により様々だから正解はないけど、自分はこうしている」という言い方で伝えるようにしている。

パラグラフ・ライティングの基礎を知るのはたやすい。けど実際に書く時にはいくつかの迷うポイントがある。たとえば、「一つのパラグラフに適切な長さってあるの?」とか「どこからどこまでが一つのトピックなの?」生徒がそういう疑問をつぶやいたり、大福帳に書いてきたりすると(大福帳はこういう観点ではやはり必要なツール)、「僕の場合は…」とこっちからフォローをする。そういう時にものを言うのが自分の経験だ。自分の経験でしか答えられないから。

今学期も使うことにしました、大福帳。

2016.09.09

目次

今日の授業でのやりとりから

今日の授業では、「先に意見を決めてから調べ始めるのが良いか、それとも色々な本を読んでから調べるのが良いか?」「想定される反論を自分の小論文に組み込む時に、再反論できない反論を見つけてしまったらどうするのか?」という質問をとりあげた。これ、国語教師の皆さんならどう答えますか? 自分は次のように答えました。

意見を決めるのが先?調べるのが先?

うーん、僕の場合は「仮決め」をするな。実際には時間の制約があるので、「仮決め」をすることで焦点が定まって効率よく調べることができるから。そうでないと、どんどん調べることが増えて、締め切りまでに終わらなくなっちゃうかもしれない。でも、大事なのは、それはあくまで「仮決め」だということ。結論は調べるうちにいくらでも変えられるよう心がけている。自分の結論を最初に決めるというのは、自分に都合の良い資料ばかり集めたりして、新たな見方を取り入れるつもりがないってこと。だから、小さくまとまったレポートは書けるかもしれないけど、書くことで自分自身が新しいことを学べない。それは愚かなことだと思う。

再反論できない反論を見つけてしまったら?

これ、みんなどうする? 無視して「なかったこと」にする人…けっこう多いね(笑) 僕も以前はそれを「見なかったこと」にして、書かなかったこともある。でも、今は「自分の文章で言えるのはここまでで、ここから先は言えない」とか「自分の立場だとこういう深刻な問題がおきて、それについては対処できない。それでも自分はこっちの立場をとりたい、なぜなら…」と書くようにしている。そもそも、小論文で自分の文章が完全に正しいと言う必要はないし、そんなことが言えるなら議論にならないんだから。また、もし読者がその分野の知識のある人だったら、「この問題には違う立場からこんな反論があるのに、それについて触れられていない、ちゃんと調べてないのかな」と疑問に思われる可能性もある。そういう意味でも、自分が再反論できない反論に対しても触れた方が、書き手として誠実で正しい戦略だと思う。

自分の経験を語るためにも、教師が書くべき

書くことのプロセスは複雑で、また書き手によって様々な選択がありうる。したがって、教師はせいぜい「とりあえずのセオリー」は言えるけど、一律に「これが正しい書き方」だとはいえない。上の僕の回答が「正しい」かどうかはどうでもよくて、大切なのは、一人の人間の書き手としての姿勢を大人が見せることだと思っている。

teachers as writers の研究も、またナンシー・アトウェルの学校で教師が生徒と同じジャンルの文章を書いていることも、「教師が書くこと」の有効性を証明している。教師は、「正しい書き方」を教えるためにではなく、書くことの複雑さを理解し、「書き手としての経験」を伝えるために教室にいるのである。だから、そのためには教師が書かないといけない。書くことの大変さ、難しさ、楽しさを、経験しないといけない。

[読書]この一冊で教師のライティング・グループができる!Smith, J., & Wrigley, S. (2016). Introducing teachers’ writing groups.

2016.05.14

アトウェルの学校見学レポート(2) どんな授業なの?

2016.04.17

…というわけで、生徒と同様の条件で、来週までに課題の下書きを書くつもりです。明日からの3連休も2日は出勤だし、暇がないよ…!

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