気になったことを自分のためにメモ。リテラシーを育てることの重要性を前提とした上で、「リテラシーを持つ発信者」としての倫理を、学校教育でどう扱うべきかについて。
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数学の統計の授業の後の懇話会で…
昨日、勤務校で、教科を超えて授業を見合う有志の定例会があった。昨日は中1数学。自分で集めた50個のデータ(これがまた、多種多様なデータで生徒の個性が出ていた)をスプレッドシートに記入してヒストグラムを作り、適切なデータ区間の設定について考える授業の導入部分だったのだけど、各教科の参加者が混じったその後の懇話会で、ちょっと気になった論点があった。
色々と話していると、国語も社会も数学も「(統計や資料の読み取りなどの)リテラシーを育てている」点で共通点がある。でも、「情報を読み解く側」ではなく、「情報を発信する側」にまわった時の倫理をどう扱うか、という問題だ。
だまし方はいろいろ
例えば、今回の数学の授業。ヒストグラムは区間の区切り方を適当にいじれば、データの第一印象を左右できてしまう。もちろん適切な区間の区切り方も、それを求める公式も、その理由もあるらしいのだけど(授業の主眼はこっち)、あえてそうではない区切り方をしてデータの第一印象を操作するヒストグラムも、実際にはあるのだそうだ。まあ、円グラフとか、3Dグラフとか、塾の合格実績を強調するグラフには怪しいのがいっぱいあるしね。
文章表現でも似たような話はたくさん。僕が思いつくのだけでも、「嘘ではないけど、ある事実を意図的に隠して触れない書き方」「重要なところをぼかして、読者があえて誤解するように誘導する書き方」「主張とは微妙にずれたわかりやすい比喩を意図的に使って、説得力を増す書き方」「統計的には真偽が裏付けられない「事実」を、たった一つのエピソードの力で読者に印象付ける書き方」みたいなものはたくさんある。詭弁的な論法も、枚挙にいとまがない。
情報を発信する側の倫理
情報の受け手として「こういう書き方に騙されないように」と教えるのは良いとして、リテラシーを身につけた書き手の側にまわった時、こういう書き方をする書き手になってしまわないか。「書く力」を単純に「読み手に伝える力」と狭く規定してしまうと、「これもあり」みたいなことになってしまう(多くの読者にとって、上記の書き方が「効果的」なのはおそらく間違いないのだ)。
これ、引用の作法と似たような話で、「やってはだめ」というだけでいいのかなあ。実際には「悪質なレトリック/効果的なレトリック」の間はグラデーションだし、どこまでやったらいけないのかの判断基準も、人によってぶれそう。書き手の側の倫理。作文の授業をする上ではあまり考えたことがなかったけど、これからちょっと気にしてみようと思った。他の学校では、どのようになさっているんだろう? 経験のある方がいたら教えてください。
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