またちょっと前の出来事の日記的ふりかえり。今年も軽井沢ブックフェスティバル2025に参加してきました!とはいっても、今年は10/25(土)-26(日)のうち、参加できたのは26日の1日のみ。お手伝いも受け付けくらいしかできず、ほぼ一参加者として、忘れておきたくないことのメモになります。前回の参加記録は下記エントリ。
全体でどんなセッションがあったかは、公式facebookページでどうぞ!
軽井沢ブックフェスティバル2025
https://www.facebook.com/groups/karuizawabookfestival/?locale=ja_JP
ポッドキャストのメディアとしての特徴
今回のセッションでまず印象に残ったのは、内沼晋太郎さんと野村高文さんのトークセッション「PODCAST(音声配信)と本と」。下記リンク先で収録が放送されているので、全部聞きたい方はどうぞ。
個人的に良かったのは、お二人の話を聞きながら、ポッドキャストのメディアとしての価値を、本や動画と比較して整理できたことかな?野村さんによれば、「本」が論理的一貫性に貫かれているのに対して、「ポッドキャスト」は冗長で余白や偶然性があるメディアだと指摘しつつも、同時に「本」も「ポッドキャスト」も、「動画」に比べると長いコンテンツである点が共通している(ちなみに「映画」も本やポッドキャストの仲間として語っていました)。なお、ポッドキャストは動画に比べて滞在時間も5倍から10倍あるそうです。たしかに動画はアテンションエコノミーの権化みたいなメディアですからね。ショート動画のような刺激の強い細切れの動画で時間を奪おうとする。それに比べたら、「ながら聴き」できる音声メディアは、集中度は低いが滞在時間は長い。「ながら読み」ができない(しにくい)本とは違いもあるけど、コンテンツや滞在時間の長さは共通しているわけ。
で、野村さん内沼さんも、音声や本は長いコンテンツであるぶん、読み手(聞き手)が直接的に課題だと思っていないことに偶然出会えるのが良いところ、という論調でした。これはたしかに。ただ、情報の要約はAIがすぐにやってくれるようになったから、偶然出会える情報を持つ長いメディアの可能性はかえって高まったという見立てをしていたけど、問題は短い過刺激の情報受容に慣れた読み手(聞き手)が、本や音声の冗長性にどこまで我慢してくれるか、じゃないかな…という気もしました。
読書を「聴く」体験も一般的に?
内沼さんは北欧ではオーディオブックが一般的になってきている話もしていました。ここは、内沼さんの「本チャンネル」での「オーディオブック大国の驚くべき現状――Storytel ノーラ・クンットゥさん インタビュー【フィンランド出版事情】」という番組を視聴してもらうとわかるのですが、フィンランドではオーディオブックのサブスクリクションが一般化しており、なんと新刊のほとんどが刊行同時にオーディオブック化されているらしい。かつて読書をしていたけど忙しくて読書から離れた大人たちが、「ながら聴き」ができるオーディオブックによって読書に「戻ってきた」側面があるのは面白いですね。
このへんは、読書教育に興味がある国語科教員としても、とても興味深い話。もともと物語は口承で「語りー聴く」という関係性の中で受容されていたのが、近代に活字が普及して一人で黙読する習慣が定着したけど、オーディオブックによってそれがまた変わっていくのかな。特に「本をながら聴きする」習慣が一般化すると、読書がラジオ全盛期のラジオドラマのような感じになっていくのかな。「読書」という行為がどう変わっていくのか、興味あります。
個人的にはあまり得意じゃないけど…
風越学園でもラジオ(校内限定のポッドキャスト)を配信するようになって、僕も前よりはこういうのを聞くようになったんですけど、でも実は僕はあまり得意じゃないんですよね。僕の場合、「ながら聴き」だと、聴き終わったあとには本当に何も残らないというか…。国語関係だと、笠原諭さんのVoicy「デジタル時代の国語教育」ラジオと、黒瀬直美さんのPodcast「今日も明日も授業道」を聞いているんですけど(他にもあったら教えてください、特に小学国語!)、それを何かに活かせているかというと….汗 というていたらく。でも、今回の内沼さんと野村さんの対談で音声配信に対する興味もちょっと高まったので、もうちょっと聴き続けようと思います。まあ、自分でやることはないかなあ、過去の放送をすぐに検索できないので、アーカイブとしては使いにくそう…。
行ってみたいな、「翻訳者の家」!
音声配信の記事が長くなってしまった。今回のブックフェスティバルでは他にも音楽家・浦久さんの「ひとり図書館」とか、予備校講師・三浦武さんの「山椒魚」講義とか、面白いのあったんですけど、ここに書くのはもう一つだけ。衣川理花さん(編集者)、土方奈美さん(翻訳家)、近谷浩二さん(翻訳プロデューサー)の「日本と世界をつなぐ本」という翻訳の話題のセッションです。コーディネーターは内沼晋太郎さん。
一番面白かったのは、土方さんがお話された海外の「翻訳者の家」(translater in residence)のお話。アーティスト・イン・レジデンスやフィロソファー・イン・レジデンスは知っていたけど、トランスファーもあるんだ!土方さんが滞在されたのはスイスだけど、世界的に有名なのはドイツにある施設だそうで、言及されていた本を思わずその後探して読んでしまいました。世界中の翻訳者が集まって翻訳をしてすごす家の紹介と、そこでの翻訳者との交流を描いたエッセイ。
いいなー、行ってみたくなる。あれ、もしかして『イン・ザ・ミドル』を翻訳した実績で、泊まる最低限の権利は持っているのかしら…?? 他にも、ここでは詳述しないけど、そもそも翻訳作業がどういうふうに始まるのかとか、翻訳者の名前が表紙に載る国とそうでない国があるとか、ロンドンでは雨穴が人気とか、面白いトピックがたくさん。ちなみにいまロンドンで学んでいる長女に伝えたら「たしかに書店で日本の本が多いかも!」との反応でした。
AIの時代に翻訳はどうなる?
翻訳といえば、AIに指示すればひとまずの翻訳があっというまにできてしまう現在、翻訳の仕事ってどうなるんだろう…とは、誰もが漠然と思うところでしょう。でも、そもそもいまは「翻訳にAIを使わない」ことが契約に入っているのに加えて、「これは人間が何をAIに譲り渡していいのかという問題だ」というお話が印象的でした。僕も思うに、翻訳という行為は、目の前の文章を単に異なる言語に逐語的に移すのではなく、その文章の背後にいる「書き手」に迫ろうとする営みだと思うのですよね。僕も『イン・ザ・ミドル』を翻訳していた時は、できるだけナンシー・アトウェルの思考に迫ろうとしていたし。それはもちろん不可能な試みなのだけど、でもそうやって書き手の「声」を聞いて、正確ではないにしろ自分なりに迫ったその「声」をまた誰かに受け渡そうとする営みが「翻訳」なのだと思います。だとしたら、その翻訳者のアレンジャーとしての「作家性」はたしかに存在するし、その「作家性」はAIの時代にも尊重されていてほしい。
だから、簡単にAIに置き換わらないはず….と思いつつ、一方で「安ければなんでもいい」「手っ取り早く意味がわかればなんでもいい」人が多い(僕もジャンルによってはそう)のも実際のところだと思うので、どうなるのかは、正直よくわかりません。もしかして人間の手を介した翻訳が「贅沢品」になってしまうのかな、という気もします。そうならないように、とは祈りつつ…。
というわけで、遅ればせながらふりかえった軽井沢ブックフェスティバル2025。今回は音声配信とかAI時代の翻訳とか、テクノロジーで変化しつつある時代の「本」へのアンテナがたった一日だったかな。また来年もありますよう!そして行けますよう!




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