年明けにブログで書いたとおり、今年はブログを音声入力で書く実験をはじめています。正直なところ、まだ慣れずに戸惑っているかな。今日のエントリでは、現時点で感じる「音声入力」と「手入力」(鉛筆やキーボードでの入力)の違いについて書いてみます。
書くためのツールは文章に影響する
書く入力ツールを変えることが、単に同じ内容を入力方法を変えただけなのではなく、文章そのものに影響を与えることについては、元々ある程度知っているつもりでした。たしか滑川道夫『日本作文綴方教育史』にも、筆で書いていた頃には、書き直しができないので、まず最初に結論を書く書き方が結構多かったけど、鉛筆と消しゴムで書いた文章が消せるようになって、書くことが変化していったと指摘した箇所があったと思います(いま、原典確認してないので正確性はごめんなさい)。それと同じような変化が、文字入力から音声入力への変化にもあるんでしょうか。
音声入力の良さと難しさ
今のところ僕にとっては、音声入力は「書く」よりも「話す」に近い入力方法です。そこから生じる、音声入力の良さも、難しさも感じています。
フリーライティング的に気軽に書ける
音声入力の大きなメリットは、文字入力と違って自己検閲が入りにくいので、パッと思いついたことをフリーライティング的に文章に残しやすいこと。最近の僕はまずiPhoneでグーグルドキュメントを開いて入力するのだけど、気軽にできるハードルの低さを実感しています。一方で、話し言葉は予想以上に支離滅裂で、冗長で、脈絡がありません。だから音声入力で書いたものをそのまま文章にすることはなくて、結局文字で再編集しています。それでも、最初の敷居を下げる効果は大きいですね。
「誰か」に話しかける感覚
僕の場合、音声入力をするときに、(ポッドキャストのように)目の前にいない誰かに向かって話している感覚から抜け出せていません。だから音声入力では、どうしても、読み手あるいは聞き手を意識した敬体(ですます調)の文体になってしまう。この「誰かに向けて発信する」感覚は、これまでの僕のブログにはあまりなかった要素で、いくぶんか内容も外に開かれた感じになります。これがどんな効果をもたらすのか、見てみたいですね。
「考える」ことは苦手?
ただ、音声入力は「考える」よりは「伝える」方法だとも感じます。考えるのには不向きというか、音声入力で自分の考えが深まる感じはあまりしません。自分は思っていた以上に、「書いた文章」を読んで、それと対話しながら考えを進めていたんだなと思います。書いて、自分の書いた文章と対峙して、また次を書く。この「対峙する時間」が音声入力にはないので、なんだかするする進んでしまう感じ。これはフリーライティング的な自己検閲が入らない良さでもあるんだけど、結果として書いたときの発見に乏しい。もしかして、僕が大事にしたいDisicovery Writingと音声入力は相性が悪いのかもしれない。でも、これは慣れの問題で、慣れていけば音声入力でも考えを深めていけるのかもしれない。もう少し様子見です。ただ、今のところは音声入力で考えを深めるには、対話する相手(対談相手)が必要そうな気がしているんだけど、どうかな。
音声入力、もう少し続けてみます
いまの僕は、音声入力というテクノロジーが単に書くことを便利にするだけではなくて、書くことそのものに影響を与えるのを実感しています。ちょうどスマホのフリック入力が、話し言葉と書き言葉の中間的な「打ち言葉」を生んだのと同じように、音声入力もまた、話し言葉と書き言葉の新たな混淆あるいは接近に繋がっていくのでしょう。
正直今はまだ慣れていないんだけど、もうしばらくは、音声入力中心にブログを書く実験を続けて、それが自分の文体や思考にどんな影響を与えるかを見守りたい感じです。もうちょっと慣れてきたら、敬体(ですます調)じゃなく常体(だ・である調)で音声入力ができるようになるんでしょうか。また、音声入力でももうちょっと考えを深めることができるんでしょうか。音声入力で書く実験を、もうちょっとやってみたい。そこから、授業で音声入力をどう取り扱うか、自分のスタンスが見えてくる気がします。