身を委ねつつ、距離を取る。「授業の型」とどう付き合うか?

昨日の夜、「教育探究ひろば」のオンライン勉強会に出ました。ゲストスピーカーは軽井沢風越学園の元同僚、陽平さん(佐々木陽平さん)。「授業の型とどう付き合うか」という題で、ちょうど最近「授業の型」について考えていたこともあったので、これは面白そうだなと思って参加してみたのです。今日のエントリは、この「授業の型」について、教師の熟達の視点から書いてみます。

写真は20年以上ぶりに訪れた、雨の「港の見える丘公園」。シルバーウィークも今日で最終日。この連休は、仕事で東京で仕事して、長野で妻の誕生日をお祝いして、敬老の日には横浜の「かこさとし展」に行ってから僕の両親に会って、ベルリンにいる長女とオンラインでつないだ。つまり、いい連休でした!

 

そもそも「型」って何のこと?

昨日のオンライン勉強会でも話題になったのだけど、そもそも「授業の型」とは何かを定義するのも、実はけっこう難しい。そこで、ここではいったん、「授業をつくる各要素のパッケージ」を「型」と呼んでおきたい。たとえば僕がやってきたライティング・ワークショップなら、最初にミニレッスンがあり、次に子どもたちが書いて教師がカンファランスする「書く時間」があり、最後に共有の時間がある。こういうセットを1つの型として考えていく。

ちなみに文章指導における型の問題については、以前も下記エントリで書いていて、特に2025年のエントリは今回の記事とも問題意識は共通しているな、と思うので、よければ読んでいただきたい。

文章の「型」は必要とされるときに手渡したい。まず型を教えよ、という意見について。

2018.09.09

文章指導における「型」をめぐる問題。『ライティング教育の可能性』オンライン書評会より。

2025.11.02

まずは真似る。意味はあとから見えてくる。

さて、授業の型があることで、何が可能になるのか。逆に、何ができなくなるのか。僕自身、型については、有益な面と懐疑的な面の両方を経験してきた。

まず、助かった面から。それは、さっきのライティング・ワークショップの例でいうと、「ミニレッスン→書く時間→共有の時間」という型があったことで、僕のライティング・ワークショップへの理解は確実に深まったということだ。


この実践を始めた2008年当初は、ライティング・ワークショップへの関心はあったものの、その型が持つ意味がまだよくわかっていなかった。ひとまずは表面上の形だけをなぞっている段階。なぜ最初にミニレッスンがあるのか、なぜ書く時間があるのか、なぜ共有する時間があるのか。それを深く突き詰めることなく、とりあえずやってみていた。

この実践をはじめて数年は、型を構成する個々の要素の必要性を十分にわかっていたかというと、正直それは怪しい。当時の自分としては「工夫」したつもりで、自己流にアレンジすることもよくあった。最初は「書く時間」は家でやってもらってもいいのではないかと思ったり、その後もついミニレッスンが長くなったり、共有の時間はまあいいかと思って2回に1回にしてみたり….

でも、そうやって試行錯誤しながら、作家の時間の持つ意味、授業の背景にあるライティング教育観が体になじむにつれて、型の要素それぞれの意味もクリアになってきた。僕の場合、そこには一定の時間がかかった。実践を数年間続けて、並行して作文教育についての論文などを読んで視野を広げることを通して、なんとなくしっくりきた、というのに近い。

いまこう書いてなんと迂遠なと正直感じるし、ここは人によってもっと早く型の意味をつかむ人もいるだろう。ともあれ僕の場合は、実践を始めて5年くらいの時間をかけて、「ミニレッスン」「書く時間」「共有の時間」が「型」としてあることの意味を、体感として受け入れていったように、ふりかえって思う。言語による説明だけでは、こうはならなかった。

僕の熟達の過程において、ライティング・ワークショップの型は、実践経験も実践の持つ理念の理解も浅かった僕が、ひとまず真似することを通して、実践の奥にある思想や価値観に近づく鍵の役割を果たしていた。いったん何かの型を真似てみる。いったん自分の狭い了見にもとづく考えやこざかしい工夫は棚上げして、先人の蓄積に身を委ねてみる。僕の場合は「こざかしい工夫の棚上げ」は足りなかった気もするが、ともあれ実践のもつ価値観に迫るうえで、型はたしかに有効だったのである。

授業の「めあて」、最初に出してますか?

一方で、型は人を考えなくさせることにもつながってしまう。

この春、僕のホームのオンライン勉強会で、ちょっと面白いやりとりがあった。公立中学校に勤める勉強仲間が、授業でみんながどれくらい「めあて」を提示しているのかを聞いてみたのだ。結果は見事に分かれた。公立学校に勤める仲間はめあてを提示するし、私立に勤める仲間には、提示しない人が圧倒的だった。実は、僕自身もめあてを最初に提示することはない。最初からゴールがわかっているなんて面白くないな、と自分が感じてしまうから。

ここで言いたいのは「めあてはいらない」ということではない。めあてが必要な子もいれば、それがかえって授業をつまらなくさせる子もいる。である以上、めあての有効性は教師と生徒のいる文脈の中でしか判断できないものだ。

しかし、おそらくは、多くの公立学校で、この「めあて」は教育委員会から授業の基本の型として示されている。そして、「めあて」があることが当たり前になっていて、その意義が問われなくなっているのではないか。そもそも「めあて」はなぜあるのか、なかったらどうなるのか、「めあて」を使う授業はどんな授業観に基づいているのか。そういうことが一切問われず、ただ「めあて」を書くことが空気のように当たり前になってしまう。そして、「めあて」がない授業が存在することへの想像力すら奪ってしまうのだ。

実は、僕も大学の前期の授業で多くの学生(将来、小学校の教員をめざす人たち)が模擬授業の最初に「めあて」を板書するものだから、「どうしてみんなそんなめあてを書くの?僕はたぶん一度も書いたことないんだけど」と聞いたことがあるのだけど、それにはっきり答えられる学生はそう多くない。

こんなふうに、「型」が背後にある授業観から切り離されて受容されると、それこそ形骸化した無意味なものになって、教員のリフレクションや成長を支えない。その型の向こうに何があるのかを考え続け、探索する鍵として使うこと。それが型を使ううえで大事な姿勢なのではないかと思う。

「基本の型」って、ほんとうに板書・指示・発問?

「めあて」ついでに書くと、こういった「基本の型」については、「本当だろうか?」と思っているふしが僕にはある。

「めあて」もその一部である、板書したり、指示したり、発問したりする、いわゆる一斉指導のスキル。初任の教員は、これがまず基本の型だと教わる。アクティブ・ラーニングや学びの個別化が叫ばれたときにも、「まずは一斉授業の技術が教師の基本の型で、それができなければアクティブ・ラーニングも個別最適な学びもできない」という声がベテランの教員の間から聞かれた。

かく言う僕自身も、そう思っていた。そして筑駒から風越学園に移って授業を試行錯誤していたとき、「これは応用問題を解いているな」という感覚があった。つまり、スクール形式に机を並べた四角い教室で、チャイムが鳴り、黒板が前にある状況で一斉授業を展開するのが「基本の型」であり、その型を身に付けてからでないと、風越のようなチャイムもなければ流動性の高い環境での授業に対応するのは難しいのではないか、と思ったわけだ。

しかし、数年してこの考えは揺らいできた。というのも、風越学園には、大学を卒業して現場経験を積まずにすぐ初任者として来るスタッフもいるからである。彼らは通常の学校のような環境で、板書や指示や発問の型を十分に体得する機会がない。つまり、僕の先の理解では「基本の型を身につけないまま応用問題を解かされている」のだ。では、基本の型のない彼らは、教員として困難を抱えただろうか。いや、決してそんなことはなかった。むしろ頼もしく成長しているように見えることも多かった。つまり、自分が授業をする上での「基礎・基本の型」だと思っていたものは、少なくとも風越の初任者の文脈ではそうではなかった可能性がある。

「型」をつかいこなすのは難しい

どの型がどういう環境や理念のもとにおいて効果を発揮するかは、やはり「型」そのものよりもその背後にある思想にさかのぼって考えないといけないわけで、その認識がないところでただ「型」を無批判に受け入れてそれを繰り返しても、誤学習を繰り返すことになりかねない。たまに聞く「数名程度の少人数授業なのに、教師が30名相手の一斉授業の型をそのままなぞってしまう」事例などは、その典型例だろう。

結局のところ、「型」とは、それを信じて身を委ねてその背後にある価値観を探索する必要があると同時に、その「型」がどういう価値観にもとづき、どういう文脈や環境のもとで有効とされているのかを、不断に問い続けなければならないのだろう。身を委ねつつ距離を取るのだから、「型」の扱いは難しい。

未来の小学校の先生に、何を手渡せばいいんだろう

いま僕は、未来の小学校の先生を育てる大学に勤めている。だから学生さんたちが初任の教員になったとき、身につけておいたほうがいい基本の型って何なのだろうということを考える。

本当にそれは、板書の仕方や指示の仕方、発問の仕方なのだろうか。いや、もちろんそれらの意味を否定するつもりはない。重要な技術ではあるだろうし、僕も模擬授業のあとのリフレクションで、それに言及する。けれど、何かもうちょっと目には見えにくい、別の型があるのではないか。例えば「困ったらこどもに聞く」とかは、「型」にならないのだろうか。彼らに何を本当に手渡すといいのか、まだ考えあぐねているのが正直なところだ。

まとまりはないけれど、昨日の勉強会に参加して、そんなことを考えた。陽平さん、教育探究ひろばのみなさん、どうもありがとうございました。

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