古賀史健『さみしい夜にはペンを持て』は、『取材・執筆・推敲 書く人の教科書』や『20歳の自分に受けさせたい文章講義』などのライティング教本を書いてきた古賀さんのジュニア向け最新刊。特に僕は『取材・執筆・推敲 書く人の教科書』は名著だと思っているだけに、その古賀さんのジュニア向け本ということで、楽しみに読んだ。
書くことの核を「個人の営み」に置く
書くことに関する話題の中でも立場の違いが比較的はっきりするものに、文章を書くことが「個人の営み」なのか「他者とのコミュニケーション」なのか、という問いがある。もちろんこれはどちらも間違っていないのだが、立脚点をどちらに置くかで、書くことの捉えはだいぶ異なってくる。
僕は「書くことは個人の営み」とする立場で、それは、子供時代に「誰にも読まれないのに寝る前に文章を書き続けた」楽しみによるところも大きい。書くだけで、自分が読むだけで楽しかったのだ。書くことは、読まれるよりも先に、僕に取っては発見の方法であり、楽しみであり、自分との対話だった。
古賀史健『さみしい夜にはペンを持て』もまた、書くことの核を「個人の営み」に置く本である。本書は、「うみのなか中学校」に通うタコジローくんというタコが、うみのなか市民公園で出会ったヤドカリの「おじさん」に出会い、対話を重ねることで書くことに出会っていく体裁をとっている。ヤングアダルト向けの本らしく、フィクション仕立てにはなっているが、本書で「『聞いてもらうこと』より先に、『ことばにすること』のよろこび」(p38)があると指摘する筆者は、書くことは自分と対話を重ねることであり、書くことで誰かへのリアクションではない「自分のことば」(p138)と出会えると説くのだ。そして、具体的には日記を書くことをすすめる。それは、日記が「一人になって」書けるものだからだろう。
自分の考えを深めていくためには、ひとりになる必要がある。ひとりの場所で、ひとりの時間に、自分ひとりと向き合って書くからこそ、ひとつの考えが深まっていく。(p138)
ヤドカリのおじさんいわく、一人になって書くことでそこに「自分のことば」をもった「もうひとりの自分」が生まれる。そして、その自分が、読者である「未来の自分」を読者にすることで、「「秘密の書きもの」だったはずの日記が、いつしか「秘密の読みもの」になっていく」(p268)。書くことは、こうして読むことになっていく。
書くことと読むことの接続
ここには、「書くこと」と「読むこと」の微妙な接続がある。もともとは誰かのために書いていたわけではない、書くこと自体の喜びを目的としていた文章が、「自分」という読者を通過することで、他者に読まれる可能性を持ちはじめる。もちろん、日記というジャンルでは、その他者はぎりぎり「自己という他者」に閉じている。しかし、最後になってタコジローくんの日記は、イカリくんという信頼できる読み手の存在を得て、ほんものの他者に開かれ始める。本書ではこんなふうに、「個人に閉じられた営み」であった書くことが、読むことを経由して、他者とのコミュニケーションに変貌していくプロセスが描かれているのだ。
書くとはどういう営みか
こう考えると、本書は、「書くとはどういう営みか」という問いに対する筆者の答えを、フィクション形式でわかりやすく語った本とも言える。書くことは、まずは個人に閉じたひそかな楽しみとしてはじまり、やがて、他者に開かれていくもの。僕もその通りだと思う。そんな書くことの魅力が、理解というよりは、体感できる本である。