明治時代から昭和戦前期にかけて日本語と英語で詩を書いた異色の詩人、野口米次郎(ヨネ・ノグチ)関連の文献が、近年増えてきた。昨年には初めてのヨネ・ノグチ学会も開かれたそうだ。僕はかつて彼に関心があったので、「学生時代にもっとちゃんと勉強しておくのだった」という後悔もあるものの、ノグチが注目されるのはなんとなくうれしい。
星野文子『ヨネ・ノグチ 夢を追いかけた国際詩人』は、そんなノグチが18歳の頃にアメリカにわたって米英で詩人として成功を手にするまでの青年期を対象に、その足跡を追った本である。「成功したい」という漠然とした夢を資源に外国に渡った明治時代の一青年が、当時の文学者たちと交流を深め、多くの人々の手を借りながら詩人として自立していく様子が、ノグチの手紙を中心に浮かび上がってくる。
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読んでいて思ったことが2つ。一つは、ノグチを突き動かしていたのは「外国で成功したい」という漠然とした功名心で、後に彼が言うような「日本精神を知らしめるため」というのは、「外国で成功する手段の一つ」という側面も強かったのだろうな、ということ。もう一つは、彼が図太い神経と愛嬌の良さで臆することなく周囲の人に助力を求め、そして周囲もそんなノグチに時に振り回されつつ、彼の欠陥も含めて彼を愛していたのだろうなということだ。実際、ドウス昌代『イサム・ノグチ 宿命の越境者』に詳しく書かれているが、ノグチの女性関係ははっきりいって褒められたものではない。彼はエセル・アームズやレオニー・ギルモアとほぼ同時並行的に関係を持ち、レオニーとの間には子をなしておきながら(のちに彫刻家イサム・ノグチとなる)、日本に帰国してからは結局日本で別の妻を娶る。そんなノグチのような男に多くの援助があったのだから、不得手な英語と大きな野心を持つ異国のハンサムな青年は、アメリカの女性にとってもよほどチャーミングだったのだろう。心なしか、著者の書きぶりもノグチに対して好意的である。
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この本は、成功を手にするまでのノグチの米英時代を、新発見の書簡をまじえながら活き活きと浮かび上がらせている。それだけに、かえって帰国後の彼に興味を惹かれる。野心に満ちたこの若者が、帰国して以降の後半生、旺盛な執筆活動を展開し文壇の著名人になりながらも、どこか不遇の印象を受けるのはなぜなのだろう。むしろそちらに関心を惹かれる読後感だった。
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野口米次郎というと、こちらも忘れてはならない一冊だ。こちらのほうが、彼の生涯を捉えるのには向いているかもしれない。
ただ、いずれの本もノグチの詩そのものにはあまり重点を置いていない。ノグチの詩を本格的に論じた本というと、外山卯三郎『詩人ヨネ・ノグチの詩』(1966)まで遡らないといけないかも。詩人の著作だと、大岡信『一九〇〇年前夜後朝譚』(1994)にノグチの詩への言及があったはずだ。いずれも機会を見て読み返したいなあと思う。