[読書]「個別最適」という言葉にどう向き合うか。授業づくりネットワーク45号『「個別最適な学びと協働的な学び」を考える』

授業づくりネットワーク45号『「個別最適な学びと協働的な学び」を考える』を読んだ。タイトル通り、個別最適な学びと協働的な学びについて、いろいろな筆者・立場から書かれた「ごった煮」のような本である。実は僕も寄稿者の一人なのだが、ようやく読み終えて、特に全体として、「個別最適」という言葉について考えることが多かった。このエントリでは、そこを中心に書いてみたい。

目次

巻頭座談会、渡辺さんがキレッキレ

まず、最初の巻頭座談会(秋田喜代美さん、佐々木潤さん、中川綾さん、蓑手章吾さん、渡辺貴裕さん)は、まあ渡辺さんがキレッキレで面白かった。何人かが発言した後の「正直、ここまでの話ですでに私はよくわからない」という第一声から始まって、「個別最適な学び」という概念が出てきた経緯やその背後にある学習観が持つ危険について指摘しており、まさに独壇場の感すらある。まあ、それについては個人的な本誌のハイライトの一つなので、ぜひ直接読んでほしい。

ここでは、余談めいた話になるが、渡辺さんが最後に次のように述べていたことを取り上げたい。

上から示された言葉を大学教員らがしたり顔で解説して、それを現場の先生方がありがたがってその実現に努めていく、そうした構造自体を変える必要性がある。

これも本当にその通りである。やや悪口めいた余談になるが、僕も渡辺さんが指摘するようなタイプ、いわば御託宣読み解き型大学教員に初めて出会った時、それが僕の抱く「自律的かつ批判的に研究を進める」大学教員のイメージとあまりに違っていて驚いた記憶がある。その人が「予測不能なこれからの時代を生きるための力は…」と言ったところで、当の発言者にそんな力がありそうに見えないのだから、説得力ないことこの上ない。ご本人も内心は退屈だろう。こんな構図はお互いのために早くなくなってほしい。

ちなみに、渡辺貴裕さんは、ご自身のnoteで「受け止めの幅広さを一望する ~『授業づくりネットワークNo.45 「個別最適な学びと協働的な学び」を考える』」という本誌のレビュー記事を書いている。

AIによる個別最適化をどう捉えるか?

この座談会では、他にヒロック初等部の蓑手さんが「あえて古いデジタルの使い方をしている」と言っていたのも面白かった。AIがそれこそ「個別最適」に次の問題を出すデジタル学習教材は、しばしば揶揄を込めて「AIドリル」と称されるが、蓑手さんの指摘は、そのような親切設計のAI活用が、結局のところ子どもの自律的判断力を奪う危険性を指摘している。「子どもが望んでもいない時から、勝手に最適化されたくない」という発言は痛快でさえある。

ちなみにこれに加えて、僕は、AIにお薦めされた問題を解くことが、問題を解く行為や選書する行為をただの「レールに乗った作業」にしてしまい、学習者から試行錯誤の喜びを奪ってしまうだろうとも考えている。

もっとも、これについては佐々木さんが「AIドリルのログを活用している先生はほぼいない」とあ言っており、危険性云々以前にそもそも「現場にはログを活用する余裕などない」のかもしれないが…

これも余談めくが、同じことは教師にも言える。つい最近のニュース「AIで教室の子どもを動きを把握 『監視ではなく、授業の改善狙い』」で、子どもの動きや居眠りをAIで把握するシステムが話題になったが、子どもの監視につながる危険性の指摘は当然として、そもそもその程度の「あれ、みんな話聞いてないかな?」くらいの雰囲気は、授業者であれば感じ取れるもの。というか、それを感じ取って「うまくいってないな」と判断したらその場で臨機応変に修正できるように専門性を伸ばしていくべきであって、後でAIに教えてもらってやっと気づくようでは困る。こういうAIの活用は、結局のところ教員が自らの専門性を磨く機会もそれによって成長する喜びも奪ってしまうのではないだろうか。

「個別最適な学び」への違和感をめぐって

さて、再び本誌の話題に戻る。本誌で展開されている「個別最適な学びと協働の学び」をめぐる論考は、僕の原稿も含めて本当に多種多様だ。その一因は、この言葉が「その気になればなんでも放り込めるマジックワード」であることもあるだろう。また、数多い執筆者の中には、「個別最適な学びと協働的な学び」という概念を所与のものとして、それをどう実際の教室で達成すべきかを書けばいいのか、それともその概念自体を問い直して良いのか、迷った方もいたのではとも思う(実は、僕は迷って問い合わせた)。

そんな数多くの原稿の中で一つ、伊藤晃一さんの「定時制高校の授業は生徒の「個」にどう応じるのか 〜或いは「夜」という学習環境について」を取り上げたい。筆者は定時制高校での、自分の撮った写真に言葉を添える実践について書いた後で、定時制高校に通う生徒の置かれた状況を念頭に、「個別最適な学び」という語に対して次のような思いを吐露している。

自分に合った学び方で学んでいく。そんな理想が託された「個別最適な学び」における「個」という語は、学習者が学校で学ぶことに疑問を抱いていない前提の表現になっていないだろうか。たとえば、学校での学びに何らかの傷つきや不信感があり、他者との交流を恐れ拒絶し、しかし、それでも学校に通おうとする「個」の思いは考慮されているだろうか。(p54)

この発言はずっしりと重い。僕は伊藤さんの本はまだ読んでいないのだが、ぜひ読んでみたいと思った。

伊藤さんに限らず、「個別最適な学びと協働的な学び」という語について、その前者である「個別最適な学び」という語に違和感を表明する論調はしばしば見られる。他にも例えば菊地南央さんは、本誌の「総合学習の特性「から」つくる、個別最適な学びと協働的な学び」の中で、この言葉がEコマースやエンタメ配信を中心とした業界に出自を持つことを押さえつつ、そもそも「個別最適」を人が実現することは不可能だと論じている。さらに、ご自身のnote「個別最適な学び」という名の幻想」では、それを補う形で、

どこかに「個別最適な学び」が有ると思いこむと、『この学習法はあなたに最適なのだから、取り組まないあなたが悪い』というメッセージを出しかねない。

と警鐘を鳴らしている。これもよくわかる話だ。僕自身の「国語の苦手な子を追い詰めてしまうカンファランス」を思い出す。

また、本誌の執筆者ではないが、井久保大介さんはやはりnote「個別最適の「個」とはどこまでか?」において、「個別最適化」というときに前提となる「個」が「ものすごく過剰に個人に主体性と能力を求める、マッチョな主体的学習者像」であることを指摘し、この言葉が「能力は人に内在する」という能力観に基づく限り、結局のところ序列化を促進させ学びの場を息苦しくするものにしかならないのでは、と指摘している。

 学校で子どもたちと生活していれば、社会にも蔓延するそういったせまい「個」の捉え方こそが、生きづらさを生んでいることにすぐに気がつく。ひとりひとりに選択肢を与えて表面上は自由を謳いながらも、個別最適という言葉に潜む、せまい「個」に内在する能力主義的な価値観が、一向に無くならない格差を助長し、さらに見えなくしてしまうのではないだろうか。

これは大変に納得のいく指摘で、個人的には、井久保さんのような反応を生んだだけでも、授業づくりネットワークがこの特集を組んだ意義があったのでは、と思うほどだった。

自分と「個別最適」との距離

さて、伊藤さん、菊地さん、井久保さんらの刺激的な文章を読みながら、正直に告白すると、僕はこのお三方よりもはるかにナイーブに「個別最適」という言葉に向き合っていたと言わねばならない。それは、僕自身が近代的な「強い個人」像を内面化しており、能力が個人に内在するものであり、それは努力で獲得できるという、近代日本のメリトクラシーを支える理念の中で「マッチョに」生きてきたことを意味するだろう。筑駒を離れて風越に来てから、自分が抱く個人観の薄っぺらさにようやく気づきつつあるとはいえ、見えていないものはまだたくさんありそうだ(そして、勝手に仲間に引き込んで申し訳ないが、おそらく経産省の皆さんも、僕と似たようなものなのではないかと思う)。

多様な視点から考えられる一冊

ここまで、本エントリでは、本誌の特集を手がかりに、「個別最適」という言葉について色々と眺めてきた。本誌では、他にも、いろいろな立場の方の論考が見られ、時折、ハッとさせられることがある。例えば、長らく特別支援教育に関わる加茂勇「『みんな』で夢を求める学びと、零れ落ちる子どもたち」では、「協働的な学びとして「みんな」で行う授業が進むほど、参加できない子どもが増えて」きた皮肉な状況を指摘し、「個別最適な学びを考え、本当の協働的な学びを創るならば、当然ながら、困難のある子どもの姿に注目する必要があ」ることを改めて強調しており、襟を正す思いだった。定時制高校勤務の伊藤さん同様、学校制度の「周縁」にいるからこそ見えるものもあるのかもしれない。多様な視点から考えられる一冊である。

余談ではあるが、加茂さんの原稿の中の、映画「みんなの学校」で知られる大空小学校が、制度上は特別支援学級を多数存在させて、そこで加配を受けた教員で通常学級での授業をおこなっているという指摘にも驚いた。そんなことしても、いいん…だ…?

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