[読書]教師本位でも子供本位でもなく。西尾実の国語教師論

今日のエントリは、つまみ食い読書。西尾実国語教育全集にある教師教育論からの個人的メモです。

長野県に引っ越して初のゴールデンウィーク、家族でブックオフ巡りをしたら、某店に西尾実国語教育全集が全巻まとめて売ってあって「おお、さすがお膝元…!」と感動したことがあります。とはいえ感動して買った後は全く開かずにお蔵入り…というのは僕によくある話。でも、夏の日本国語教育学会で知り合った先生が、西尾実『国語国文の教育』の第5章「教師教育論」に言及してくださって、ようやく本を開く機会に恵まれました。ありがとうございます(笑)

西尾実の国語教師論

西尾実の『国語国文の教育』「教師教育論」では、国語科教員の物事に対する態度を次のように3つに分けていました(全集1巻p165〜)。

  1. 第一段階

    規定を規定としてただこれに従い真面目に実行しようとしている段階。

  2. 第二段階

    規定に縛せられることを屑しとせず、自己の主義主張に基いて自由に児童生徒の個性を養い伸ばしてゆこうという段階。 

  3. 第三段階            

    規定のために規定に従うのではなくまた主義や個性をふりかざすのでもなく、ただ己を空しくして忍耐強く道に随順することによって、法規をも、児童生徒をも、自己をも生かしてゆく段階。

「自分本位」「子供本位」への厳しさ

これを読むと僕なんかは典型的な「第二の段階」だと思うのですが、こういう手合いに対して西尾先生は実に手厳しいのですね。

そういう教育者は、生徒の生命を伸ばしそれを力強くすると思いながら、実は教師自身の自我を以てそれを蔽い、児童生徒をして、一時的な自己の追随者たらしめて満足している場合が甚だ多い。

 

自己の主観に立脚して、教材の見方から教え方まで、あくまで自我の刻印を刻して教えてゆこうとするのは、いかにも全生命を打ち込んだ熱心さのように見えるが、これも教師の個人的主観をもって児童生徒の心を色どり、一時的興奮を与えるにすぎない(後略)

などの言葉が並んでいます。面白いのは、こういう自分本位の教師は、得てして子供を語る際に、「取るに足らぬ些事、ないし矯正せらるべき癖までも、何か特殊な意義あることででもあるかのように」取り扱い、それを「個性の尊重」だと勘違いする、という批判をしていること。こういう教師は、結局「なんらの指導も鍛錬も与え得ず」に終わる、と痛烈に批判をしています。一見「教師本位」と対立的に語られそうな「子供本位」をも、教員の我執に基づいたものと書いた点は面白いなと感じました。

我執を離れて「道」に従う第三段階

そしてこの第二段階を超えた段階が第三段階。単に規定に従うのではないのはもちろん、「教師中心」でも「子供中心」でもない第三段階は、「道」に従うというもの。

 

真理の前に謙虚に立ち、己がゆだねられた一人一人の生命を尊重し、愛護して余念なき時、始めて生命を打ち込んだ教育が実施される

 

第三段階の場合には、我執を離れた静かさ清らかさの奥に永遠性が成立し、自覚の深さから生じた白熱の力がある。青年的な赤熱よりも、かくのごとき覚者的な白熱によって被教育者の人格はその根底から陶冶される。

ここはイメージはつかめるものの、実質的にどうするのかは正直なところよくわからない….。ただ真理を追求して道に従うこと。それによって、法規をも、児童生徒をも、自己をも生かしてゆく、それが第三段階ということなのでしょう。とはいえ、この「真理」「道」が何なのかが今の僕にはブラックボックスにも思えるのですが…。

ということで、自分にこの言葉が消化できる、ましては実践できるとは思えないのですが、「自分本位」「子供本位」を超えるという言葉が魅力的に感じたので、ここにメモを残しておきます。いつか読み返した時に、「あれはこういうことか」と思う日が来るかな?

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