[読書]「内発的動機づけ」の神聖視を超えて。速水敏彦『内発的動機づけと自律的動機づけ』

行動を持続するためのやる気=動機は、その行動をする本人にとっても、そして、ある望ましい行動を子どもにしてほしいと考える保護者や教育関係者にとっても、とても大きなトピックだ。それだけに「内発的動機づけ」「外発的動機づけ」という言葉だけが一人歩きしたり、何がよくて何が悪いのかという単純化された議論になりがちだったりする。そんな中で、速水敏彦『内発的動機づけと自律的動機づけ』は、主要な動機づけ理論の紹介・整理をしつつ、筆者独自の観点から「内発-外発」の軸とは別に自律性という観点からモチベーションに注目し、研究的知見や教育現場への提言まで行っている。価値と教育現場の研究書ではあるのだが、僕らのような一般読者にもわかるように書かれているのもいい。本エントリでは、僕の個人的なエピソードや考えも交えながら、この本から学んだことを書いていきたい。

目次

「外発的動機づけですみません」

先日ある保護者の方と話していた時のこと。その保護者の方が、お子さんの学習に交換条件(スマホを買う)を持ち出して動機づけたことについて「外発的動機づけですみません」という、何か申し訳なさそうな口調で話していたことが印象に残った。「いやいや、外発的でも内発的でも、続けば良いんですよ」と答えたのだけど、「内発的動機づけ」はこんなふうに保護者を縛るのだな、ということが印象に残った。

「内発的動機づけ」=良い動機づけ?

この保護者の方のように、世の中の少なくとも一定の層には、「内発的動機づけ」こそが「良い動機づけ」で、外発的動機づけは望ましくないという考えが受け入れられている気がする。しかし、僕はいくつかの理由から、その考えを元々支持していなかったし、このエントリもその立場からのものなので、まずはその点を明記しておきたい。

最大の理由は、人間が内発的動機づけだけで動機づけられることなど、現実的にはほとんどないからだ。人間はさまざまな形で動機づけられる。内発的動機づけを肯定的に語る人の中には、幼児がいかに内発的動機づけで行動するかを強調し、それが人間の本来の自然の姿であるかのように語る人もいる。しかし、幼児がそう行動するのは周囲が未知のことばかりでかつ社会性を獲得していない段階だからそうなのであって、社会的生物としての人間が、成長してからも幼児のようにふるまっていたらかえって不自然だ。そんな「自然」像は、「無垢な子ども像」と同じく、大人の自分勝手なファンタジーに過ぎないと考えている。

僕達は、純粋な興味以外にも、他者からの評価や道徳意識など、色々な動機で行動をする。内発的動機づけを信奉する研究者だって、嫌々ながら業務上仕方なくやる仕事もあれば、学会で賞を貰って喜ぶことも、より良い待遇を求めて所属先を移ることもある。これは皮肉ではなく、むしろ、色々な動機で行動することが人間としての「自然」なあり方なのだと僕は思う

二つ目の理由は、内発的動機づけの重視は、子どもの教育に関わる大人(教師や保護者)をしばしば追い込んでしまうからだ。安藤寿康『なぜヒトは学ぶのか』で、「教育による学習」を人間特有の学習でそこには教育する側の欲望があると捉えたように、教育者の欲望が、良くも悪くも教育という営みの重要なファクターであることは疑いない。

その営みを被教育者の内発的動機づけのみによって達成することは、そもそも非常に困難だ。「私が彼に望んでいることを、彼が自らそれをやりたくてやるように環境を整える」なんて、実際には無理ゲーすぎるのは、火を見るより明らかである。内発的動機だけが良いなんて思い込んだら、教育者の側が追い込まれてしまう。他の、よりコストのかからない手段が検討されるべきなのは当然である。

さらに、そこまで苦労した結果、仮に子どもが内発的に動機づけられたとしても、果たしてそれはそんなにパワフルに機能するのか?という三つめの疑問もある。内発的動機づけとは、要するに「それをやるのが楽しいからやる」という感情のことであって、それだけで人間が動き続けるのは難しい。認知心理学が明らかにしてきたように、人間は知的好奇心もあるが、それを上回るほどに面倒くさがりで飽きやすい生き物でもあるからだ(下記の本を参照)。

[読書]認知心理学の成果を教育現場に活かす。ダニエル・ウィリンガム『教師の勝算 勉強嫌いを好きにする9の法則』

2019.05.01

持続が苦手なのは人間の本性である。しかし、ある程度の「達成」が求められるフェーズでは、どうしても持続的努力が必要になる。内発的動機づけだけで全ての子が持続的努力の面倒くささを突破できるとは、僕には到底思えない。実際、自分のやりたいことから始まったはずのプロジェクトが途中でしぼんでいく事例は、それこそ身の回りにたくさんある。

筆者の基本的な立場

今回のエントリは、ここまでが前置き。こういうふうに、もともと「内発的動機信仰」に懐疑的な僕にとって、速水敏彦『内発的動機づけと自律的動機づけ』は、僕の抱く疑問を一定程度裏書きしてくれる本だし、勉強になることもたくさんあった。

筆者もまた、内発的動機づけ(だけ)が教育の現場で重視されている現状に疑問を抱く研究者である(ここが僕と同じなので、僕には非常に共感しやすかった)。筆者は、

  • 内発的動機づけは行動喚起には有効だが、行動の持続には影響力を持つとは限らない(p17)
  • 内発的動機づけの学力面での効果については明確な関係は示されていない(p19)
  • 現実には誰でもどのようなことにも一種類ではなく質の異なる複数の動機づけが働いていることの方が多い(p21)

などを根拠にして内発的動機づけの神聖視に疑問を呈しており、その観点から、従来の動機づけの理論の整理と、そのモデルの修正を目指している。

自己決定理論の整理と修正を試みた本

ここで筆者がベースにした理論とは、デシとライアンが提唱した自己決定理論である。筆者はこの理論を構成する六つのミニ理論のうち、特に「有機的統合理論」と「基本的心理的欲求理論」を取り上げ、整理と修正を試みている。本書は、そのプロセスと結論、そしてそこから得られた教育への示唆を書いた本である。

従って、本書の構成上、その前半は自己決定理論の解説にもなっていて、これ自体もまた勉強になるのだが、ここでは詳細を避けて、特に面白いと思った次の3点に絞ってメモしておく。これを読んで何か引っかかったり面白そうだと思ったりした方は、ぜひ本書を読んでほしい。

  1. デシらは、自己決定の連続帯として動機づけを六つに分類しており、「内発的動機」づけをもっとも自律性が高いものと位置付けているが、筆者は、その連続帯を自律性の観点で2つに区分し、自分にとって価値あるものの達成を目指す「同一化的動機づけ」を、最も自律性が高い動機であり、自己調整方略が働く場面だと考えている。
  2. デシらは、子どもの発達水準の相違をあまり気にしていないが、筆者は、筆者は動機づけにも発達段階があると考えている。子どもの頃は「好き嫌い、面白い面白くない、あるいは感情的・情動的判断が中心で学習動機づけが左右されている」(p159)し、現実の場面では報酬や罰などの外的動機づけで勉強することが圧倒的に多い(p151)のだが、大人になるにつれて「社会化がなされることで価値観を内面化し、自律的な判断により、自分にとっての意味、意義を考えて学習しようとする」(pp159-160)。
  3. 筆者は、自己決定理論のうち「基本的心理的欲求」の三つの要素「コンピテンスへの欲求」(有能感)「関係性」「自律性」に関して、これら三要素がこの順番で充足・促進されることで、自律的動機づけが形成されると考えている。

感情中心の動機づけと価値中心の動機づけ

筆者によれば、内発的動機づけは、自分にとっての快を中心に行動する「感情中心の動機づけ」であり、自律的動機づけは、たとえ多少は快くなくても自分や社会にとって望ましいことをなそうとする時の「価値中心の動機づけ」である。そして、内発的動機づけばかり重視される現代の教育では、「粘り強さ」につながる自律的動機づけの観点がもっと導入されて良い、と筆者は主張する。

内発的動機づけと自律的動機づけは補完し合う

とはいえ、誤解のないように断っておくと、筆者は決して「自律的動機づけは内発的動機づけより優れている」などとは書いていない。むしろ筆者は、「自律性が育ち、子どもたちが発達するに伴い、取り入れ的動機づけや同一化的動機づけのいわゆる内面化した外発的動機づけと内発的動機づけは並行的に働いたり、相互作用し、対立するというよりは支えあう関係になるのではないか」(p214)と書いており、子どもの年齢や行動のフェーズ(開始時点か、持続時点か)によって、これらの動機づけを使い分けることを提唱しているのだ。

例えば、行動の開始時点では内発的であろうが外発的であろうが構わなくても(ただし、報酬や罰などの外的動機づけは持続性の観点で負の影響があることも指摘されているので、やはり内発的動機の方が望ましいのだろう)、その行動が持続するように、自律的動機づけの形成を支援する必要がある。そのためには、僕達教員が子どもの有能性を認め、より良い関係性を築き、そして自律性を高めていくことが大事になるわけだ。

「後ろ向きな前向きさ」を評価する

さて、個人的にこの本がとても面白かったのは「楽しくないこともあるがそれでも頑張る」という類の「後ろ向きな前向きさ」を、動機の一つとして高く評価し、その価値を積極的に認めようとするところにあった。「本人にとってそれほど楽しくない学習をする場合に、自己の努力を鼓舞する」(pp138)「不安や恥といった負の感情が後押ししているのであれ、自分の意思で学習しようと動機づけられること自体、もっとポジティブに捉えられてもよい」(p199)といった筆者の言葉は、実際の僕らの行動がそのようなものであることが多いことを考えた時に、変に内発的動機づけだけを理想化するよりも、ずっと現実の行動を説明できるし、自分が励まされるように思えたのだ。

2つの動機づけをどう繋げていくか?

以前に鹿毛雅治『モチベーションの心理学』を読んだ時にも思ったことだが、人間の行動のモチベーションはとても複雑だ。本書でも、人によって自律的動機づけが高いタイプや統制的動機づけが高いタイプがいること、また、どの動機づけに対しても高い人もいれば、そうでない人もいることも示唆されていた(p198)。要するに、人それぞれということである。だからこそ、自分の好みで「内発的動機づけが大事」、あるいは逆に「自律的動機づけこそが大事」のように、単純に考えすぎないようにしたいと改めて思った。

ただ、実際には全員の動機づけのタイプを見極めてそれに対応するなんて不可能な話だ。だから、あえて本書から単純な(実現可能な)指針を引き出すとすると、教育には内発的動機づけも自律的動機づけもどちらも大事、平たく言えば、「楽しくて、頑張れることが大事」という話なのだと思う。内発的動機づけだけでは頑張れない(=持続しない)し、自律的動機づけだけでは楽しくない。楽しいことと、継続してがんばれること。きっとどちらも大事で、そのためには、内発的動機づけと自律的動機づけをどう繋げていくかを、僕たちは考える必要があるのだろう。

この記事のシェアはこちらからどうぞ!