「感動エビデンス主義」から考える、小学校の先生という仕事

しばらく前のこと、「百ます計算」で知られる陰山英男氏(立命館大学教授)が、さる食事療法の効果を強調する文脈で、「感動エビデンス主義」という新語を提案し、それを批判する多数の人が、この造語を揶揄することがあった….まあ、ご存知ない方もいると思いますが、Twitterの狭い世界の中では、あったのですよ。

この話題は特定の食事療法の効果に関することで、この件に関する限り、僕も陰山氏が悪いとしか思ってないのだけど(これは勘違いされたくないので先に書いておきます)、同時に気になったことがあった。それは、陰山氏が元・小学校教員であることと絡めて、「これだから小学校の先生は…」という、小学校の教員を揶揄する感想も見られたことだ。今回のエントリは、そこから「小学校の先生」について考えたことをつらつらと書くエントリ。

念のため断っておくと、僕は小学校免許を手に入れたばかりだし、小学校現場を知っているわけでもない。だから、何となく、「小学校の先生」について自分で考えるためのエントリである。内容の妥当性については保証しません。

目次

小学校の先生らしい?感動エビデンス主義

最初に書いておくと、僕は、今回の陰山氏の「感動エビデンス主義」はとても「小学校の先生らしい」発言だと思っている。とはいえ、だからと言って小学校の先生を批判しているわけではない。単純に、高校の先生と小学校の先生を比較した時に、タイプの違いを感じている、ということだ。それは、小学校の先生が、学問的な手続きを経て採取された客観的なデータよりも、エンドユーザーである個別の生徒の声を重んじる、という違いである。

教科的な専門性を背景にして教える高校の先生は、自分が背負う親学問の研究を重視する。そこには必然的に、研究するための手続きの客観性への志向がある(一般的には主観的と思われているかもしれない文学研究でも同じことだ)。

ところが、小学校の先生は、そういう親学問を重視しない。これももっともな話で、全ての教科を教える小学校で教科的な専門性を求めるのは無理な話だし、そもそも相手はまだ言語が十分に発達せず、身体的な感覚が主で生きる年齢の子ども達である。学問は基本的に言語によって記述・伝達されるので、仮に小学校の先生で親学問を重視しようとしても、相手が幼すぎるのだ(もちろん、一部の優秀な子達は違うだろうけれども)。

「学問的な正しさ」よりも「子どもの主観」

代わりに、小学校の先生は「子どもの主観」を掴むことに力を入れる。彼らが楽しく授業に取り組めるように。安心して過ごせるように。クラスのみんながまとまるように。いずれも、子どもの主観によりそうスタンスが、小学校の先生に特徴的だ。200人以上の生徒を(でも自分の教科の時間だけ)教える高校の先生と違って、30人くらいの子たちと毎日ずっと一緒に過ごすのだから、その子どもの個別の主観に意識が行くのも納得がいく。そして、この時に役立つのは、高校の先生が大学院で学んだような親学問の研究ではない。また、科学的なエビデンスだって、教育政策のレベルではともかく、今目の前にいる子どもに通用するわけではない。小学校の先生に必要なのは、目の前の一人一人をとにかく良く観察し、まだ言葉でうまく表現できない子どもの感情を、身体の動きや場の「空気」などの非言語情報も駆使して掴み、それを柔軟に調整する能力なのである。

これは、エンドユーザーの子どもの感情を重視するという点では、陰山氏の「感動エビデンス主義」と同じだ。元・小学校教員の陰山氏が「感動エビデンス主義」と言い出したことに対して、僕が「小学校の先生らしいな」と思ったのは、こういう理由からである。小学校では昔から「水からの伝言」「EM菌」などの似非科学が流行することがあって、僕も昔は「なんでこんなに小学校の先生は非科学的なんだろう」と不思議だったのだけれど、もともと小学校に「科学的な客観性よりも子どもの感情を優先する」土壌があるからではないか。小学校って、科学的・客観的であることが、職業上、そんなに必要とされない場なのではないか。今はそんな風に思っている。

高校の先生と小学校の先生の熟達の違い

だから、同じ「先生」という職業とはいっても、高校の先生と小学校の先生では、熟達の仕方も違いそうだ。例えば僕が国語科の教員として熟達するためには、まずはひたすら本を読むし、教材研究をする。ある教材を扱う時には、論文や先行実践をいくつも集めて読み込む。実際、僕はそうやって国語科の教員として少しずつ熟達してきた。

でも、小学校の先生が国語の授業をする時にこんなことはしない。指導書はおろか、教科書の朱書きを読むのが教材研究という人も少なくないはず。でもそれを「小学校の先生は、各教科の専門性が低いから良くない」と批判するのは、どこか間違っている。求められる専門性の比重が、高校と小学校では大きく異なるのだから。子どもの主観に寄り添おうとすればするほど、授業準備だって、学問的な正しさよりも、子ども理解に重点が移る。どちらにもどちらなりの易しさ、難しさがある。

実際のところ、僕には、小学校よりも高校の教科教員として熟達する方が、易しく感じられる、というのが本音である。何しろ本は常日頃読むし、大学院で経験した、自分の感情を脇に置いて文章を客観的に読む訓練は、国語の教材研究や授業ではそのまま活かせる。論文を読むのも苦ではない。とにかく、大学・大学院での学問的な訓練の成果を生かして毎年少しずつ教材研究をブラッシュアップすれば、まあ大外れはなく授業改善できるのである。

一方で、言葉もまだ十分に通じない子どもの主観に寄り添うとか、安心できる場を作るとか、子どもたちに飽きさせずに何かに取り組んでもらうとかは、僕にはとても難しく、雲を掴む話に思える。とりわけ「学級経営」はディシプリンがあるわけでもないので、どの方向に努力をすればいいのかもわかりにくい。小学校では怪しげなカリスマ教員も出がちだけど(Twitterでの観察のみに基づいています…)、その理由の一端に「熟達の過程が見えにくく、魔法のように見えてしまう」ところもあるんじゃないかと、個人的には思っている。

もちろん、ここで僕が今描いた構図とは異なるタイプの高校教員、小学校教員もいらっしゃるのだろうとは思う。ただ、今の所そんな傾向の違いを感じている。

最後に補足…

最後に陰山氏に話を戻すと、おそらく陰山氏は小学校の先生としては極めて優秀な方なのだろう。ただ、子どもの主観に寄り添うことが得意な小学校の先生が、学問的な客観的手続きを重んじないといけない大学の先生に転身した時に、そこには何らかの価値観の葛藤や困難が生じるのかな、という気もした(我ながら勝手な言い草ですね…)。しつこく繰り返すと陰山氏の今回の「感動エビデンス主義」発言はアウトだと思っているけど、でもまあ、それはこのエントリの主眼ではないのだ。

今回のエントリは、「小学校の先生とはどういう人たちか?」の答えに自分なりに接近するためのもの。そのためとはいえ、小学校と高校の先生の違いを二項対立的に書いてしまった面もある。実際は、ここまで二項対立的ではないのだろうし、教員のパーソナリティーによって比率の配分は当然違うけど、本来は「子どもの主観」と「学問的な客観性」はどちらも重んじられるべきものだろう。他人はさておき、僕の場合は、後者もさることながら前者が圧倒的に不足しているので、そこをどうするかだなー。

 

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1 個のコメント

  • いつも拝読しています。小学校と高校の間に位置する中学校でも、教師は両方のことが求められ、さらに「教科」より「部活」メインの人もいるなぁ、などと興味深く読みました。自分も、あすこまさんと同様教科寄りで(本当は高校の先生になりたかったんです!)、特に初任の頃は、生徒の気持ちが掴めず苦労しました。恥ずかしながら今でも苦手は変わらないので、自分が不得手だと自覚し(開き直り?)、それが得意な先生にさりげなく生徒の話題を持ちかけて見立てを聞いたり、時には相談したりしながら学級や生徒指導を行なっています。教科は、親学問の専門性を高めつつ、「どう学ばせるか」は常に考えます。どんな教育手法にも一長一短があり、生徒を見て判断しないと間違いを起こすからです。校種や勤務校の変化だけでなく、同じ学校でも生徒が変わると、求められるものも変わることを体験しているので、すごく納得できました。教科の追究がとことんやれれば嬉しいけど、それだけに特化できるほど自分の能力は高くないから、いろんなことに力を注いでいかないとなあ、というのが今の自分の状況です。