学校で読書を強制されることへの不満にどう答える?(自己反省エントリ)

リーディング・ワークショップのように読書を学校教育にとりこもうとすると、読書好きの生徒が喜ぶかというと、そんなことはない。読書好きの中には、「読書は私的な楽しみであり、学校で強制してやらされるものではない」という信念の人が、一定の割合でいるからだ。誤解を招かないように書いておくと、リーディング・ワークショップでは「特定の本を読むこと」も、まして「特定の感想を持つこと」も強制しない。それでも「授業で読書を強制されること自体が嫌だ」という生徒は確実にいる。

授業で読書を行うことの「正当性」

高校生に教えていた時、そういう違和感を表明してくれた読書家の生徒がいて、これはよく言ってくれたなあと思って、授業で取り上げたことがあった。どう返答したかは定かに覚えていないけれど、あの時の僕の返答の仕方は、はっきり言って全然良くなかった気がする。要は、「国語力向上の手段としての読書を授業中に行うことには正当性がある」と主張したのだと記憶する。実際、彼に反論しようと思えば、その材料はある。

  1. 文章理解度の多くは語彙力に影響されるという研究成果が広く支持されていること
  2. 読書の量と質の多様さが語彙力を向上させるという研究成果が支持されていること
  3. 日本の国語の授業が一般的に精読中心で、接する文章の量が圧倒的に足りないと思われること
  4. ほうっておくと中学生から高校生にかけて、不読率が上昇すること
  5. したがって、授業中に読書時間をとることが有効であると思われること
  6. (おまけ)そもそも、普通の国語の授業でも一つの短編を読むこと自体は強制されているのだから、それを受け入れておいて、本になったら急に嫌になるのって、なんかおかしくない?
  7. (補足)日本の国語教育では、昭和30年代の学習指導要領改訂から「読解」と「読書」が区分されて、授業では「読解」中心となり、「読書」が私的時間にやるもの、みたいな扱いになっていった。「読書=私的営み」という感覚も絶対ではなく、その延長線上にあるものと言える。

などなど。当時の僕もたぶんこんなことを彼に言ったのだと思う(7についてはリーディング・ワークショップの授業の初回に言っていた)。

しかし、これは要するに「自分のやっていることには正当性があるんだから言うことを聞きなさい」という返答である。そして、授業で読書を強制されることが嫌な生徒が求めているのは、こういう「読書を授業で取り入れるロジカルな説明」じゃないんだろうなあ。どうすればよかったんだろう。ただ個人的に彼に話を聞きに行くのがよかったのかな。聞いてもらえるだけで、納得するものなのだろうか。

どうすればよかったんだろう?

僕はもともと対人コミュニケーションが得意ではなく、しばしば、根本的なところでボタンをかけちがえることがある。振り返ってみると、これも、その一例だなあと思った。自分の好きなこと、しかも私的領域と信じることを、授業で明示的な指導つきでやられると、私的な楽しみの領域を侵された気になるんだろう。僕も読書好きの生徒だったので、その気持ちはわかるし、その気持ちも捨てたくないなあとも思う。でも一方で、多読が持つ効果を考えると、やらなくてもいいとは言いにくかったのだ。…いやまてよ、彼はもともと多読家なんだから、やらなくてもよかったんだろうか。

結局、どうしたらよかったんだろう。急に彼のことを思い出したので、なんだか誰の訳にもたたない反省文のようなエントリ。

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2 件のコメント

  • 読書を授業に取り入れるとなると、この問題が浮上してきます。読書家の生徒は本来の楽しみを奪われるような気がして、いやな感じがするのはよくわかります。ペナック先生の読書の十箇条?でしたか、あれにも共通することかもしれません。
    本自体を教材にするのですから、何だかいじくりまわしすぎて、まどろっこしくなる感覚でしょう。
    しかし、あくまでも授業ですから、その授業の目標や目的に合致するような学びを獲得することが大切なんだ、ということくらいしか言いようがないのかもしれません。
    生きてるだけで丸儲けならぬ、読んでいるだけで丸儲け、という乱暴な言い方かもしれませんが、そういうことも言えるので、場が違えば、楽しみ方も違ってくるのだよ、ということで良いと私は考えています。

    • そうですよね、読みの力を鍛える授業というスタンスとしては、そう言うしかないのかもしれませんね。読んでるだけで丸儲け、良い言葉ですね笑