[紹介]「文章の音楽性」をめぐる座談会:自分の「声」を発見するために

2019年1月は、13日に「これからの国語の話をしよう」、14日に「古典は本当に必要なのか」と、ツイッターのタイムラインで注目度の高いイベントがありました。が、一つは家庭の用事で、もう一つは突発的なトラブルで行くことが叶わず。まあ、それも人生。気を取り直して、ある方から教えていただいた、文章についての座談会を紹介します。これ、面白いので読んでみてください。

目次

「文章の音楽性」をめぐる座談会

「「文章の音楽性」をめぐる座談会」と題されたこの記事、一応のメインは「自分の仕事をつくる」「一緒に冒険をする」の西村佳哲さん。僕はお名前を何度かうかがっているのだけど、まだ実際には読んでいない書き手である。

「文章の音楽性」をめぐる座談会 #01 ―文体について―

https://www.monosus.co.jp/posts/2018/12/262723.html
この座談会、

「西村さん、文章ってどうやって書いたらいいんですかねえ?」
「うーん。まあ、音楽みたいな感じなんだよね、文章を書くことって」

という、およそ国語教育には応用の効きにくそうな会話(笑)から始まる。

「視点」を持つことが「文体」につながる

この前編で気になるのは、「文体」と「視点」。ここでの「文体」って、英語圏でいうVoice(声、その人らしさ)と密接な関係がある。そして、面白いのは、写真家は自分独自の「視点」を持っているから、文章もその人自身の文章になる、という菅原良美さんの発言だ。

「文章の良さとは何か」を考えると、何を見ているのか、その人はどう思ったのかということが重要なんだと思う。写真家は、自分にしか見えないものについて考えていると思うので、書くときもその人自身の文章になるんですよね。たぶん、技術は磨けるけれど、視点は磨くものではなくて。持っているかどうかという種類のものかもしれません。

これと似たようなことは僕も思ったことがある。良い文章が書けるかどうかって、書き方の技術論ではない。書き手が世界を自分の目で見る、その見方の視点だったり、深さだったりと、不可分な関係がある。僕は世界をきちんと、丁寧に見ているのか….いや、できていないな…思わず自問自答してしまう文章だ。

「文章の音楽性」をめぐる座談会 #02 ―文章はレコード盤である―

https://www.monosus.co.jp/posts/2018/12/272712.html

「読み手との距離感」を意識する

続いて後編では、西村さんが真鍋太一さんの文章に実際にコメントしながら、推敲について語っていく。僕が面白かったのは、この座談会で、推敲を「読み手との距離感を作っていく作業」と意味付けていることだ。

文章って、レコード盤みたいなものなわけ。「読む」ことで針を落としていくと、僕らが書いた音楽が、読み手の頭や心のなかで再生されていく。そのときに、ある「感じ」が生まれるわけですよ。書くことで、その「感じ」をつくっていくことをしているんだと思う。(西村佳哲さん)

西村さんの言う「カンナ掛け」というのは、文章をきれいに整えていくということだけではなくて、読み手との距離感をつくっていく作業なのかなと思います。
ばーっと書いて、心臓というか、文章の核となる部分をまずつくって、「これを誰に読んでもらうか」を考える。全体の構成を考えたりしながら、読み手との関係性をつくっていくのはすごく楽しい作業でもあると思うんです。やっと「自分が書いている」ということに近づけるというか。(菅原良美さん)

この「読み手との距離感」という基準については、安藤聡さんも次のようなことを言っていた。

読み手の側に近づくことを意識して書く人もいるだろうし、徹底的にモノローグとして自分の立ち位置をずーっと掘り下げて書く人もいると思います。ニュートラルな中間地点を見ているのか、ダイレクトに相手に届けようとするのか。読み手との距離の取り方は、書き手その人や書く内容のジャンルともつながりがある気がします。(安藤聡さん)

この基準でいうと、僕の文章は完全に自分の立ち位置を掘り下げて書くタイプの文章だ。自分の記録しておきたいことを書いているばかりで、読み手の側に近づくことを意識していない。これはちょっと反省かな? 座談会のこの後の部分では、自分の文体を作るやり方として、「コピーすること」「音読すること」も出てくるので、興味のある人はそちらもチェックして見てほしい。

文章の「声」についての座談会

英語圏の作文教育の本を読んでいて、いまいちピンとこない概念に「Voice」(声)という概念がある。これは、文体や、それと不可分な書き手の「その人らしさ」を意味しているのだが、一般的に学校の作文教育では、この「声」についてはあまり取り上げられることがない。

「声」は、学校の作文教育の扱う範囲ではない、もっと誰にでもできる汎用的技術を教えるのが学校教育の作文教育だ。そういう立場もある。でも、文章を書くことを教える立場の人間が、個々の書き手の「声」を無視することはできない。自分も「声」のある文章を書きたいし、書き手の「声」を殺すよりも、育てていきたい。その観点で、とても興味深い座談会の記事だった。折に触れて読み返してみよう。

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