昨日、子供たちが通うエクセターの公立小学校の一年間が無事に終了した(イギリスの学校暦は9月から7月まで)。最初は言葉が全くわからず登校を泣いて嫌がった子供達だけど、三ヶ月目くらいからは楽しく過ごせて何より。今ではすっかりこちらの学校がお気に入りである。
この一年間、僕としても日本で子供を通わせていた小学校とこちらの小学校の違いが垣間見えて面白かった。今日はそれについて書いてみたい。ただ、何しろサンプル数1なので「イギリスの小学校はこう」と一般化する意図は全くない。きっと、地域や学校による違いも大きいんだと思うので、あくまで子供達が通っている学校同士の、サンプル数1の話と思って欲しい。
書いたら長い記事になってしまったけど、大きく分けて興味深かった点は3つある。
- 勉強面について(特に国語の授業について)
- 勉強以外の子供の成長に関わる要素について
- 先生の労働者としての側面について
それぞれについて、詳しく書いていこうと思う。
目次
国語は「リテラシー」。日本の授業と違うところ
何年か前に、イギリスでは言葉の教育を大切にするという本(下の本)を読んでいたので、実はどんな授業かなと内心楽しみにしていた国語(教科名はリテラシー)の授業。ところが、日本の国語の授業とは色々異なっていた。
精読の授業が存在しない?
一番驚いたのが、日本の国語の授業で主流である「全員が教科書の同じ教材を、何時間もかけてじっくり読む」授業がまるでなかったこと。読む文章は先生がコピーして配布して(教科書がないので)、その日で完結するものばかり。僕はかねがね日本の国語の授業は精読に偏りすぎているのではと思っているのだけど、かといってこっちで精読が全くないのは驚いた。
意外に本も読んでない?
また、精読がないのと同時に意外にこちらの児童は本を読まないんじゃないかとも思った。学校図書館は本当に貧弱だし、本自体が学校にあまりない。これは下記エントリで書いたマイクロソフト出資の豪華な学校でも図書館は大したことなかったので、この学校だけの話ではないのかも。もともと読書好きのうちの子たちは、約1年で言語のハンディキャップを克服してこっちの子が読んでいる平均的な読書レベルに追いついてしまった感がある。
プロジェクト型の学習が多い
精読や読書の時間がない代わり、プロジェクト学習のようにテーマを決めて(神話やオリンピックなど)それについて調べて発表したり、物語を書いたりという時間がかなり多めに取られていた。他教科との連携も多い。たとえば、工作の時間に自分で考えた新しい生き物を粘土で作って、次の国語の時間にはその生き物を主人公にして、幾つかの条件を踏まえて物語を作る、というような授業もあって面白かった。劇などの発表の機会も多かった。現実に活用できる文脈に沿って読み書きを習うというスタンスのようで、教科名が「リテラシー」なのがこの辺に出てるのかなあ。実用の文脈重視という点では、下記エントリで書いた算数教育とも通じるところがあるのかもしれない。少なくとも、精読がない分、書くことについては、日本の(子供達が通っていた)小学校よりも機会は多そうだ。
ただし、指導はどうなのかな…
ただ、学校図書館は貧弱ということもあり、本や事典の調べ方のような授業は一切なかった模様。調べる方法はパソコンでインターネット検索が主流になる(イギリスは授業内のICT利用については日本よりはるかに先を行き、全国ほぼすべての小学校の教室に電子黒板があるレベルなので、生徒のPC利用の機会は多かった)。
そして、インターネットでの検索についても、調べ方についてのレクチャーがどれくらいあるかは、かなり怪しい。うちの息子(8歳)がネット上から出典を示さずにコピペしまくり無駄なアニメーションなどの効果を使用しまくりのパワーポイントファイルを作成したところ、先生は「ブリリアント!ワンダフル!ラブリィ!」連呼。結果、本人の自信にはなったのだけど、親としては「これでいいと思ってもらっては困るんだけど…」とやや微妙な心理状態だった。
トータルでの勉強時間は相当少ない
国語に限らず、子供たちに「日本の学校とイギリスの学校どっちが好き?」と聞くと「イギリス!」と即答する最大の理由が「勉強量の少なさ」。とにかく勉強時間や宿題はとても少ない。宿題は週1回だけ、金曜日に出て翌週水曜日に提出するもの。また特徴的なのが、毎週1日は教室外に出て活動する(遊んだり、博物館に行ったり、屋外で作業したりする)日になっていたこと。つまり、教室での勉強は週4日だけなのだ。
競争の厳しいアジア圏から来る子供たちにとっては、天国のような環境である。おそらく、トータルでの勉強時間は、日本・韓国・中国と比べて相当少ないと思う。従って、教育熱心なアジア圏のご家庭は、「イギリスの教育では帰国した時に不安だから」と、放課後午後5時から10時まで家庭で勉強させるところもあった。うちは帰国に備えての勉強は全くさせていなかった(こっちにいる間は友達と遊んで英語を頑張ろうというスタンス)ので、帰国したらちょっと不安かも…。
「宗教」や「プログラミング」
日本にはない特徴的な科目が「宗教」や「ICT(プログラミング)」。宗教はキリスト教だけでなくイスラム教、シク教、仏教などの主要宗教の歴史や習慣について教わったり、調べて発表する授業だったようで、日本とはまるで違って新鮮だったのか、娘(10歳)の一番のお気に入り科目であった。
一方、息子(8歳)のお気に入りが「ICT(プログラミング)」。Espresso Codingというプログラミング学習のソフトを使っていてプログラミングを習う。しかしまあ、教育効果はどうなんでしょうねえ。息子のクラスでは、授業時間中にゲームをするのも認められていたようで、少なくとも我が家では「息子(8歳)が家で堂々とゲームをする口実」になってしまった感もある。
このように日本では馴染みのない科目もあるけれど、全体としては、子供達が通う日本の公立小学校と違って「公教育では最低限のことをやって、あとは家庭でどうぞ」というスタンス。階級社会でもあるので、特に音楽や芸術では家庭での教育の差が露骨に出る。「家庭が補えないことを保証するのが公教育」という風に幅広い分野をカバーしようとする日本の小学校教育とは対照的な気がした。
意外に親がかり?抑圧的?な雰囲気も
印象的なことの第2点目は、日本でいう「生活指導」も含む勉強以外の側面について。両親ともに「個人の自由を重んじる国」と思っていたイギリス。小学校でも当然自由や個人が重んじられるのかと思っていたが、そうでもあり、そして意外にそうでもない側面も。
「こっちの学校は自由だから好き」?
まず、うちの子たちは口を揃えて「こっちの学校は自由で好き!」と言う。一番大きいのは、「授業中でもトイレに自由に行ける」とか「みんなで何かしなきゃいけないことが少ない」とか「授業中も結構賑やか」というところらしい。そんなわけで子供たちは「自由」を感じていたのだけど、親からすると「意外に過保護だな」「抑圧的だな」「教育的じゃないな」と思うところも多かった。以下はやや辛口なことも含め、親視点で書いてみたい。
子どもを一人にしてはいけない
海外子育てをしている方のブログにはよく書いてあるが、イギリスでは子どもを一人で放置すると非常に問題視される。わかってはいたのだが、小学校1年生から「鍵っ子」だった僕は、「そうは言っても平気じゃね?」と一度このルールを犯したことがある。上の娘が急病で深夜に救急病院に運ばれた時に、英語力の不安もあって夫婦ともに娘に付き添ったのだ。下の息子はもう寝ていたのでそのまま家に残し、近所の友人チリアンさんに「こんなわけなので時々様子を見てくれ。何かあったらよろしく」と連絡しておいた。
ところが、これがまずかった。病院で「もう一人の子どもはどうした?」という話になり、事情を話すと看護師の顔色が変わる。明らかに雰囲気が厳しくなり、病院の責任者が出てきて問いただされる。病院から町の役所に連絡が行く。町の役所だけでなくロンドンの移民局のような役所にも連絡が行く…という感じ。当日だけでなく、翌日にも役所から電話が入り、どちらの施設からもかなり厳重に注意された…。いやあ、すみませんでした…。
登下校は親が必ず送り迎え
というお国柄なので、登下校時は必ず親が送り迎え。朝の9時前に送り届け、午後3時半に出迎える。この仕組みを聞いてまず思ったのが、「みなさんそんなにお暇なんだろうか…」ということ。いやあ、これ日本ではなかなか成立しにくい仕組みですよね。実際にはこっちの人も当然親が来られないケースも結構あり、祖父母を頼んだり、シッターを頼んだりと、いろいろと大変なようだ。この仕組み、娘10歳、息子8歳のあすこま家にとっては、子供達と緑豊かな道をおしゃべりしたり歌を歌ったりしながら30分過ごすことのできる、とても貴重な時間でもあった。ただ、登校班を組んで6年生がみんなをまとめて…というような日本の地元の小学校の登校風景とはかなり違う。そういう場を介した異学年の交流も生まれなくなる。
児童同士の交流は薄く、遊びも親がかり
登校班での交流がないという話だけではない。なにしろ登下校時に親が付き添って帰宅するので、放課後に子供達が自主的に勝手に集まって遊ぶということがない。遊ぶ時は、親が事前に相談し、一方の家に招待して遊んで夜には招待側がその子をもう一方の家庭まで送り届ける、という遊び方(「ティーに招待する」というらしい)になる。こういう感じなので遊ぶのも親からすると面倒だ。親子共々、他人との関わりは必然的に薄くなる。
この仕組みは不思議だった。つまり、少なくとも小学生段階では「子供たちが、自分たちで勝手に約束して勝手に集まって遊ぶ」という経験をしないのである。まあ、これは安全面の理由が大きいのだろう(日本は安全な国なんですよ…)。ただ結果として異学年での交流は生まれにくいし、子供集団の中で、親を介在させずに子供たちが自由に遊び方を模索する、なんていう機会は相当少ないのではと思う。僕としては、こういう経験をしないで成長することのマイナスをつい考えてしまうのだけど、どうなのだろう? あるいは、「子供たちだけで遊ぶ小学生時代が大切だ」なんていう考え方自体も、一つの考え方に過ぎないんだろうか。
意外に抑圧的に感じるところ
また、こちらの学校は自由だと思っていると意外に抑圧的なところもあった。ここでは嫌だったことを愚痴まじりに。
第一に、この学校では全校を4チームに分けて、チームごとに毎週ポイントを競うシステムを導入していた。なんのポイントを競うのかというと、授業中の発言や態度を先生がポイントで評価するのである。騒いでいるとマイナス何点、頑張ると何点、という風に。そして毎週の優勝チームには、翌日に制服を着なくて良いなどの特典が与えられる。まあ、態度をポイント化して、グループで競わせて生徒をコントロールしようという、僕に言わせると実に卑しい発想である。チームで競わせるので同調圧力も誘発しかねない。
正直、僕にとっては「おいおい、どこの滝山コミューンだよ…」とドン引き状態だった(下記の本参照)のだが、考えてみればイギリスが生んだハリポタのホグワーツ魔法学校そのもののシステム。ダンブルドア校長の恣意的判断でハリーやロンにポイントが与えられてグリフィンドールが優勝するという、びっくりのシーンが一巻のエンディングなのだった…。このシステム、イギリスでは抵抗がないのかもしれない。僕は苦々しく見ていたのだけど、先生たちの思う壺でポイントの結果に一喜一憂する我が子たち。ちょろい、ちょろすぎるよ君たち…。
また、先生の基本的スタンスとして「教育的かどうか」よりも「面倒を避ける」ことを優先している印象も強かった。たとえば、うちの息子(8歳)はコミュニケーション下手なので、どうしても他の子とうまく遊べず、トラブルを起こしてしまうことがある。それが二、三度続いた結果、どうなったかというと、校長の名前でその相手グループの子たちと遊ぶことが禁止されてしまったのだ。息子(8歳)の特性を承知している僕たち両親としても、この通達が、彼にとってプラスになるとはとても思えなかった。抗議をしても受け入れられず、この結果、息子は休み時間に一人で数独をして過ごすことが多くなってしまう。
この例に限らず、基本的に「自分たちの仕事がそれで楽になるのであれば、先生たちは生徒をコントロールするのを厭わない」印象があって、意外に禁止事項も多い。こうした事例は、次に書く先生たちの基本スタンスとも絡むのだと思う。
とてもビジネスライクな先生たち
定時が来ればさっさと退勤
上の話の続きになるが、こっちで驚いたことの3点目が「先生がビジネスライクだなあ」ということ。別に教師に限らないけど、イギリスの人々はビジネスとプライベートの一線を実にさっぱりと引く。また「自分の給料分以上は働かないぞ、責任を取らないぞ」という姿勢が何事にも徹底している感じがある(例えば、自分の直接のミスでなければ、同じ会社の人間の不手際でも謝らない)。
従って学校の先生たちも退勤時間が来ればさっさと帰る。通常は午後3時半に学校が終わり、うちの子が午後4時くらいまで校庭で友達と遊んでいると「われわれが帰れないから早く帰れ」と注意されたこともあった。こちらは教員の給与や社会的地位も含めて決して高くないので、イギリス基準の感覚でいうとまあ納得出来るところもある。
先生たちのストライキもある
日本の教員(教育公務員)と違ってストライキもある。しかもそれが先生ごとに対応が違うので、「姉のクラスの先生はストライキだから自宅待機で、弟のクラスの先生は授業だから登校」みたいなことが起きる。そうすると、「子どもには必ず親が付き添う」ルールの下、両親で分担して対応せざるをえないわけで、迷惑を被るのは親なのだけど、それは気にしない。学校側から特にその件でお詫びもない。僕はこの辺は「教員一人一人の労働者としての権利をちゃんと行使できるんだ」とむしろ感心したくらいだけど、日本ではちょっと考えられないことだろう。
運動会も時間が過ぎたら打ち切り
また、驚いたのはスポーツフェスティバル(運動会)でのこと。こちらの学校のスポーツフェスティバルは日本の運動会とはまったく雰囲気の違うゆるい行事で、スプーンにボールを乗っけて25メートル走って終わり、的なレクリエーション。ところが、例によって先生たちの、妻曰く「これが毎年ある行事だということが信じられないほどの」グダグダな運営っぷりで、終了予定時刻を過ぎてしまった。すると、種目が残っていてもそれで運動会打ち切り!まだ一種目も出てない子がいるのに、それでも打ち切り!…これは日本の学校でやったら非難轟々じゃないのかなあ。さすがにこちらでも文句言ってる保護者は結構いたみたいだ。僕としても、ビジネスライクなのはいいけど、だったらちゃんとビジネスしてよ、と思わざるをえない…。
保護者にサービスしよう、子供の良いところを見せようという意識がない?
上のスポーツフェスティバルが象徴的なのだけど、保護者にサービスしようという意図はほとんど感じられなかった。また、子供の成長ぶりを保護者に張り切って見せようという気持ちも、良い意味でも悪い意味でも感じられなかっった。悪く言えば、「今のあなたのお子さんの状態はこんな感じで、それは別に私の教師としての能力とは関係がない」というスタンスである。
逆に言うと、行事などで「保護者に良いところを見せよう」と教師のエゴで行事を飾ったり子供に色々と押し付ける場面がないのは良いところ。ハロウィンイベントでみんなで歌を歌う時、児童の多くがカンペを見ていて、自信がないところでは声が露骨に小さくなったりしていたのは微笑ましかった。しかも、BGMも先生の手持ちのiPhoneなのである。全く聞こえないよ!せめてスピーカーに繋ごうよ! …こんなグダグダっぷりの合唱でも、終われば先生は「ウェルダン!ブリリアント!パーフェクト!」とか満面の笑みで生徒を賞賛する。日本なら先生は落ち込むところだろう(というかそもそもこんな状態にしない)。いやあ、国が違えば違うもんだなあと笑ってしまった。
教師も保護者も「無理せず、要求もしない」
こういうイギリスの事例と比較するに、日本の小学校の教員は本当に献身的で、優秀で、よく働き、サービスしている。そして、それが先生自身の首を絞めているんだなあ…と感じざるをえない。これは日本社会全体がそうとも言える。
「学校に関わる親の仕事」という観点で見ても、こちらにはPTAもないし、そこでの仕事分担も発生しないので、送り迎えは大変だけど、それ以外はほとんど学校と関わりを持たなくて済む。日本と比べると「先生も親も無理しない代わりに、相手への要求水準も低い」のがイギリスの小学校なのだ、とも言える。教員でもあり、保護者でもある立場としては、色々と考えさせられるところがあった。まあ、あえてどっちを選ぶと言われたら、僕はイギリスの仕組みの方が幸福だと思うのだけど、どうでしょう?
所詮はサンプル数1なので、お忘れなく!
ということで、この一年間の小学校との関わりを振り返って、いろいろと書いてみた。最初にも書いたけど所詮は「サンプル数1」の個人的な印象記。きっと実際には日本にもイギリスにも多様な事例があるのだと思う。過度に信頼せず「ふーん」程度に読んでいただければありがたい。
大変面白い記事ですね。日本から欧米を見ると、なんでもいいように思いがちですが、日本のよいところを再発見できました
ありがとうございます。率直なこと言うと、保護者としては日本の方が良いです。労働者としては、もう少しイギリス風味を取り入れるか、人手を2倍にして欲しいなと思いますけど(笑)