学校図書館への「絶歌」リクエストから考える選書のあれこれ。

下のエントリを書いたあとでも、図書館での「絶歌」取り扱いのニュースをよく見る。

 

元少年A「絶歌」のリクエストが学校図書館に来たら?

2015.06.23

メディアが伝えるところでは、思っていた以上に図書館によって対応が分かれているようだ僕は「図書館の自由に関する宣言」に基づいて貸出するほうが圧倒的に多いと予想していたので、ちょっと意外な感じ。ただ、事件の舞台になった地区では制限も理解できる。

 ▷ 「絶歌」ふさわしくない 金沢市長、図書館貸し出しで (中日新聞)
 ▷ 「絶歌」貸し出し制限へ 兵庫県立図書館、遺族に配慮 (産経WEST)
 ▷ 購入判断分かれる 加害者手記「絶歌」めぐり栃木県内の図書館 (下野新聞)

こうした動きの中で、日本図書館協会の「図書館の自由委員会」は、29日に次のような声明を出した。

 ▷ 手記「絶歌」:貸し出し制限に該当せず…図書館協会が見解 (毎日新聞)
 ▷ 資料の収集・提供の原則について(確認) (日本図書館協会)

特に二番目のリンクで示された「提供制限がありうる3つの制限項目」は、頒布差し止めの司法判断がない限り提供制限できないことになっていて、提供を制限せよという側から見ると厳しい条件といえそうだ。

なお、図書館での取り扱いとは異なるが、一般のブログなどでも「絶歌」出版に言及しているものが多くあり(そもそもこの「元少年A」が本当に事件加害者なのか確証がないという論もあってなるほどと思ったが、ここではそれは省こう)、批判的なものとしてはこのブログが参考になった。

 ▷ 絶歌のあるべき取扱~表現の自由という名のファシズム~ 
              (もしあなたが自由に生きていきたいのなら)

さて、この件をきっかけにして、僕も司書さんと選書について何度か話をした。仮にリクエストに応えて「絶歌」を入れたとして、「同僚や保護者が撤去すべきだと言ってきたらどう説明するか」「この理屈で『絶歌』を入れるのだとしたら、同じ理屈で他のこんな本もリクエストに応じないとおかしいのではないか」という話から始まって、「このリクエストがもし江戸しぐさだったら?」「嫌韓本だったら?」「リクエストしてきた生徒がいかにもふざけ半分な様子だったら?」 「生徒の日頃の態度や動機で差別するのはおかしくない?」などと、色々な状況を想定しながら選書基準について話し合った。

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そうやって話してみて、改めて自分がまだ新米司書教諭で、何もわかっていないことがわかる。以下は、司書さんと話しながら気づいたこと、司書さんに気づかせてもらったことだ。

まず当たり前の話として、予算と所蔵スペースに限りがある以上、 選書をせざるを得ない。そして、選書というのは単に一冊の本を選ぶだけでなく、全体の蔵書構成なども見ながらどのように学校図書館という場をデザインしていくかという話だ。その「場づくり」にこそ、選書の楽しさも難しさもある。それは、「コンテンツについての専門知」というよりも、「コンテンツとコンテンツの関係についての専門知」「コンテンツの配置の仕方についての専門知」で、基本的に教科教員が持っていない司書の専門性の範囲である。

しかし、全てを専門家である司書にフリーハンドでお任せすれば当人がやりやすいかというと、必ずしもそうではない。特に今回のように判断に迷うケースは、司書一人に任せないほうが、判断の客観性を保つという意味でも、負担感を分有するという意味でも良いのだろう。なにしろここは学校図書館で、公共図書館とは違いもあるからだ。

第一に、公共図書館とは違って、閉じた、顔の見えるコミュニティである。第二に、コミュニティの成員の多くが児童生徒である。一方で「図書館の自由に関する宣言」はあるけれど、もう一方で「学校図書館法」や「子どもの権利条約」など考えるべき要素はあり、子どもたちは知る権利を持つ一方で、教育に資するかどうかという視点や、その子が精神的な差別や虐待を受けることのないような配慮も必要だ。

学校図書館は、時に応じて「学校」と「図書館」のいずれかの面が強く出てくる。どっちかに割り切れれば簡単なのだけど、「図書館とは言っても、学校の一部」なのか、「学校の中にあるけど、図書館」なのか、単純に二分化されない、そういう複雑な場の中に学校図書館は存在していて、その中で、僕たちはその都度何らかの判断を下さざるをえない。

そして、この時怖いのは、僕たちは自分一人の好みに過ぎないものを、「教育」という言葉で容易にごまかしてしまえることだ。「生徒の自由や知る権利を尊重すると言いつつ、都合の良い自由だけ尊重していないか」とか、「自分の好みを教育的価値と勘違いしていないか」という不安は、誰にも存在する。自分の苦手な、嫌いな本についても、生徒にとってはそうではない可能性をきちんと考慮に入れて、選書できているかどうかという不安。そういう不安に司書だけで応えるのは、なかなかしんどいだろう。特に迷うケースにおいては、学校の教員である司書教諭も一緒になって考えるのが、当然なことだろうと思う。

ただ、負担を軽減して客観性を保つといっても、各教科代表での選書委員会を開いたり、選書基準をあらかじめ明文化したりとなると、蔵書構成がつまらなくなる危険性もある。できれば、集団の合意やあらかじめ決めた安全な基準よりは、司書の持つ勘や経験の中にある専門知を信頼したい。何よりも、司書にとって選書が、大変な作業であるより先に楽しい作業であるようにしたい。だからこそ、基本は司書に任せつつも、何かの時に気軽に相談に乗れるような関係性を保っていたい。色々と不十分な点もあるかもしれないけど、当面は、僕はこの姿勢でいきたいと思う。

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