「読むために読む」はどこへ行く? 夏の学会2つの遅いふりかえり。

この夏は、8月9日と10日に日本国語教育学会と日本読書学会に参加してきました。当たり前のことですが、力の入った実践発表があって、勉強になることもたくさんあって、とても面白かったです。もう夏が終わってしまうタイミングだけど、今日のエントリは、その二日間で印象に残ったことを2つ。1つは読むことと書くことの関係について、もう1つは生成AIについてです。

写真はしまなみ海道サイクリングの途中で行った村上海軍の本拠地・能島城。台形になっている土が剥き出しの部分がかつての本丸跡です。このこぢんまりした島に、それでも200名ほどが暮らしていたそうです。

問いをつくるワークショップが面白かった

中でも印象深かったのは、日本国語教育学会で参加した横田経一郎先生のワークショップだ。子どもの問いを中心にして作品を読んでいく試みで、「ごんぎつね」を題材にして自分たちでもやっているうちに、大学の授業でも試してみたくなった。(横田さんのお名前にはどこかで見覚えがあって、帰宅して調べたら、出版学習の本を出されている方で、僕も本を持っていた)

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ちょうど同じ日の午前中には、教科書作品で読んだ技術を使って、自分でもお話を書いてみる、という、これまた力の入った実践発表があった。読んだものを、書くことに引き取る。そういう授業だ。

おそらく、機能主義的な国語ワーキンググループの論点を見ても、今後は教科書の読み教材と書き教材が、スキルを通してリンクされていく可能性が高くなっていくんだと思う。読むことで身につけた技術を、書くことで使ってみる。書き手として読み直す。その往復が、教材や教科書のレベルであらかじめ設計されるようになっていくはず。

これ自体は、僕がずっと関心を持ってきた方向でもある。ライティング・ワークショップとリーディング・ワークショップを両方やってきた人間として、読むことと書くことがつながるのは、基本的には歓迎したい話ではある。

それでも「読むために読む」は残るのか

ただ、そんな中で、気になっていることが1つある。書くために読む、だけではなく、読むために読む、読むこと自体を楽しむ、という視点が失われていくんじゃないか、ということだ。

スキルでつなぐという設計は、どうしても「この読みは、何のためのものか」を問う方向に働く。そのとき、「別に何のためでもない、ただ読みたいから読んでいる」という時間は、カリキュラムの上で居場所を失いやすい。目的のはっきりした読みのほうが、説明もしやすいし、評価もしやすいから。

そうなると、リーディング・ワークショップのような「日常の読書」に近い形態の授業を志向する僕としても、考えてしまう。どうやったら読むこと自体を楽しむ活動ができるのか。これは自分でも考えていきたい。

「あ、これAIじゃん」急に気持ちが冷める瞬間

学会でもう1つ印象的だったこと。それは、スライド作成に生成AIを使うのが、もう当たり前になっているなということだ。僕自身も使うことがあるので、時短になるのが大きい実感はある。だから、それ自体を批判するつもりは全くない。

でも時々、スライドを見ていて、これはこの言葉自体がAIの言葉だな、AIが吐き出した概念をそのまま使っているな、と思うことがあって、そんなときは急にこちらの気持ちが冷めてしまう瞬間がいくつかあった。

中でもある方の発表で、発表の中の重要概念として扱われていたものが、いかにもAIが出してきそうな単語だった。そう思ったのは僕だけではなかったのか、フロアからその言葉の具体例について質問が出たのだけど、発表者からはかばかしい答えが返ってこない。ここからは僕のただの推測だけれど、おそらくはこの方、AIが吐き出したなんとなくよさげな言葉を、ちゃんと吟味することもなく、そのまま使ってしまったのだと思う。その薄っぺらさを、とても感じてしまった。

「壁打ちに使う」のにも危険を感じてしまう…

とはいえ、人のことを言える立場ではない。自分が8月末に投稿した論文でも、AIは何度も使った。特に誤字脱字のチェックをはじめとした細かなチェックは、僕の注意力よりはるかに上なので、もうAIを使わないとできないなという気持ちでいる。

ただ、一方で、AIが吐き出してくるなんとなくよさげな概念に引っ張られてしまうことの危険性も感じている。僕自身、以前はAIはアイデアを考える段階の壁打ちに使うといいのでは、と思っていた時もあったのだけど、実際にはAIが出してきたアイデアを無批判に取り込んでしまう現象が、少なくないんじゃないか。そう思うようになった。

それで最近は、アイデアを考える段階でも、まずは自分自身で考える。そして一旦まとまったアイデアをAIとやり取りしながら、批判に答えたり、新たな視点を追加したりして、ブラッシュアップしていく。そうでないと、軸が自分の側からAIの側に移ってしまう。あの学会で聞いた薄っぺらい発表は、その典型だったように、少なくとも僕には思えてしまった。

AIについては、「AIっぽい文章」や「AIスライド」への警戒感が自分の知人の間でも増しているなと感じる。要はみんな、読み手としてうんざりしているのだろう。読み手としてはうんざりしているのに、書き手としては使ってしまう。このギャップが怖い。便利だと思って使っているうちに、次第に書くのも読むのも面倒くさくなって、結果的に、読むことや書くことの価値が毀損されているような気もして。

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