藤森裕治・編『これからの国語科教育はどうあるべきか』は、国語教師や国語科教育研究者、行政関係者はもとより、幼児教育や特別支援などの隣接分野の関係者、ジャーナリスト、スポーツのコーチなど、多彩な書き手がこれからの国語科教育を論じたエッセイ集だ。総勢で55名、著者名アイウエオ順なので、編集者による構成はなく、どこでも気になったところから読み進めることができる。実はありがたいことに、僕もお声がけいただいて原稿を寄せているのだけど(澤田英輔「自分の「物語」を語る、その先に」)、今回は執筆者としてではなく、読み手として、気になった記事をつまみ食い的にいくつか紹介したい。たぶん、この本はそういう読み方が一番良いはずだから。
甲斐利恵子「子どもたちと戯れながら言葉の学びを創造する」
軽井沢風越学園からは、僕と、りんちゃん(甲斐利恵子先生)の2名が掲載されている。というわけで、まず読んだのはそのりんちゃんの文章だ。甲斐利恵子「子どもたちと戯れながら言葉の学びを創造する」は、りんちゃんらしい厳しさとユーモアを兼ね備えたエッセイで、特に最後の一行でのどんでん返しは、読んで「ちょっと格が違うなあ」と脱帽したものだ。
この記事でりんちゃんは「楽しさ」をつくることに焦点をあてているが、別にそれは「ファニー」(funny)という意味ではなく、「心からの自然な対話ができる時間」を指している。りんちゃんは、
心が動いたとき、思わず口を開きたくなってそれを受け止めてくれる人がいると、言葉はどんどん生まれてくる。安心して話せる場所があれば言葉を探すことも楽しくなる。こんなふうに、大人も子どもも言葉を通してつながっていけたら嬉しい。(p59)
と書いているが、彼女は、自分自身が、誰かが思わず口を開きたくなったときの「受け止めてくれる人」になろうとしているのだ。そういえば、今春風越学園を卒業した僕の息子(彼は小6で僕の授業を、その後の3年間はりんちゃんの授業を受けている)に、りんちゃんの魅力を聞いたら「なんでも受け入れてくれそうなところじゃないですかね」と答えていた。子どもたちも、りんちゃんのそういう姿勢をわかっていて、公立時代と変わらず、彼女のまわりには何人かの生徒がいつも集まっている。
もう一つ、このエッセイでりんちゃんは「楽しくなるために渾身の力で授業の準備をする」とさらっと書いているのだが、同じ職場で少しは実態を知る立場からすると「オキナワ」「ミナマタ」などの主要単元にかける彼女の準備は本当にすごい。自分で用意した何十冊もの資料すべてに目を通し、「この箇所は誰々にぴったり、このページは誰々に読ませたい…」と、それぞれの子どもの姿を思い浮かべて付箋を貼っているのだ。まさに力技。僕も国語の授業のためならプライベートを犠牲にするタイプだが、りんちゃんの授業準備には勝てないんじゃないか。働き方改革の流れのある昨今、それに批判の余地がないとは言えないけど、やはり、実践家としての甲斐利恵子には、最後まで、思い切り我が道を貫き通してほしい。
首藤久義「個が生きる同時異学習と評価」
首藤久義さんの「個が生きる同時異学習と評価」は、以前に出版された首藤久義『国語を楽しく』のエッセンス版とも言える論考だ。「人には得意不得意がある。不得意も含めてその人の個性である」(p111)ことを認め、であるから「全国共通の目標水準に全員が到達すること」を否定して、「一人一人が自分なりに学び、自分なりに成長すること」をめざす。目標は、絶対水準の達成ではなく、個の成長である。
すでに、『国語を楽しく』を読んでその概略は知っているはずの僕が、それでもこの論考が印象に残ったのは、以前に読んだときよりも首藤さんの教育観に僕がなじむようになったせいだろう。奇しくも、今回僕が寄せた論考でも、同一水準の目標を掲げることで生まれる単線的序列を崩すことや、作品ごとのふりかえりを通して、子どもたちがのびのびと読み手・書き手としての自己を育てられないか、ということを書いており、首藤さんとの共通点を感じた。
そして、今こうやって改めて読むと、首藤さんの「同時異学習」のスタンスは、軽井沢風越学園という場にとてもマッチするはず、という思いが強くなる。僕のやっているライティング・ワークショップ(作家の時間)もリーディング・ワークショップ(読書家の時間)も、この「同時異学習」の一形態ではあるが、まだまだ枠を広げられそうな気がする。『国語を楽しく』も、もう一度読み直してみよう。
村瀬公胤「『書くこと』と公教育」
3つめの紹介は、村瀬公胤(まさつぐ)さんによる書くことについての論考。「書くこと」と「話すこと」の違いから、書くことの本質を考える論考なのだけど、「書くことは、推敲という”発見し直し”が許されているという点で、稀有な表現手段です」(p202)という文章が心に残った。実は僕も4月刊行予定の『君の物語が君らしく』の中で、推敲について下記のようなことを書いているので、思想的にはけっこう近いはず。
推敲とは、決して「終わり」の儀式ではありません、自分の文章に出会い直すことでまた新しい発見が生まれる、「はじまり」の瞬間でもあるのです。
ただ、表現はとても端的で、僕はこの村瀬さんの言葉が好きだなあ。
また、推敲のためには、自分で自分の文章に問いかける必要があることから、「書くことができる人とは、心の中にもう一人の自分または他者を棲まわせている人」(p202)だと述べ、そのようなうちなる他者を棲まわせるための対話経験の必要性を訴えている点も面白かった。
ここでの対話は、りんちゃんの論考で出てきた「対話」よりは「異質性・他者性」が強調されたものではあるけれど、でも、つながる話だなと思う。そして、そのために教室に必要なのは、りんちゃんのエッセイにある通り、やはり安心してその場にいられて、素直な、心からの言葉を口にできる環境整備や、教師の立ち姿なのだろう。そこで展開される学びが、首藤さんの言う、すべての子が自分の関心や能力やペースを認められて学べる同時異学習であれば、子どもたちは自分の個性に応じて言葉の力を育てていくのかもしれない…….というふうに、つまみ食いした記事が自分の関心を軸にしてつながっていくのが、オムニバス的なエッセイ集の面白さ。
実は、他にも気になる記事や面白かった記事はたくさんある。いちばん「へえ!」と驚いた横山詔一「日本人の識字率再考 一九四八年調査が決定づけた「常識」を問い直す」。これは面白かった。そもそも、識字率の測り方自体知らなかったし、「日本人の識字率は高い」という常識を考え直すことになる。他にも、「わからなさや曖昧さに耐えながら読み、考え、細やかに言語化する」ことに現代の読書の意義を見出す深谷優子「読むこと書くこと、聴くこと語ること」、教師が「思いの乗った言葉」を語ることの重要性を改めて思わせる土居正博「子どもの言葉を育てる教師の言葉」、同じ長野県の教育者である塩島学「未来を創る子供たちのために質の高い授業を」や、実はご近所さんで同姓なのでいつかお目にかかりたい澤田浩史「言葉の持つ意味合いを蓄積する 学習者にとって古典教育を身近にする工夫」など、いろんな観点から気になる論考を見つけては読んでいた。あと、お名前はあげないけど、東京時代から一緒に学んできた国語教師仲間たちも複数載っていて、それぞれのご活躍が嬉しい。
全体として何かきっちりした構成があるわけでもないし、明日の授業にすぐ役立つわけではないけど、それぞれの書き手が、規定の枚数に思いをこめて書いた文章が並んでいるので、自分が編集者となって関心ごとに沿って読み、それをつないでいけば、面白い読書体験になると思う。僕の論考もあるので、ぜひお読みください。