[読書]自分の立場を示しつつ、読者に考えを促す。八田幸恵・渡邉久暢『高等学校・観点別評価入門』

八田幸恵・渡邉久暢『高等学校 観点別評価入門』を読んだ。福井県の高校国語教師として長らく活躍されてきた(2023年度より福井県教育庁勤務)渡邉さんは、「目標と指導と評価の一体化」に向けて模索し続けた実践者であり、八田さんはその渡邉教室に入ってそこで起きていることを記録・分析してきた研究者である。そのお二人が、共著で高校の評価についての本を出した。高校勤務から離れて小学生を教える最近の僕だが、「高等学校」という部分は無視しても良いくらい、評価、特に観点別評価を考える上で、ど直球に真ん中をついてくる本である。そういう意味で、小中学校の教員にも読む価値のある一冊だ。

目次

「観点別評価」入門

本書の立場は、前書きに明確に記されている。よくある「文科省の示す観点別評価はこういうものですよ」「それに沿った評価をするには、具体的にこうすればいいですよ」というマニュアル本ではない。本書の目的は、

  • 現行の「観点別評価」を対象化してその是非を検討し、さらに教育評価の理念や方法に関する所論を整理して提示することで、現行の「観点別評価」をいかに教育評価の理念に沿って実施できるか、その方針を示す
  • 読者の先生方に対して「観点別評価」をいかなる方針で実施するのか自己決定を促す

ところにある。その意味で、文字通りの「観点別評価」入門というか、観点別評価について読者が考えるための本になっている。そして、読者の自己決定を促すがゆえに、色々な立場を示した後で、筆者たちの立場も随所で明確に伝えている。

個人的には超がつくほど重要な第1章!

そして、第1章「『観点別評価とは何か』を問う前に」の第一節で、教育評価をめぐる「客観性」「公平性」などの現場用語の整理から始めているところも本書の大きな特徴だ。それによって、観点別評価をめぐる不安を解消し、評価の議論の土台に乗ってもらうことを意図している。

ただ、身も蓋もないことを言うと、ここで示された高校の先生たちの「懸念」は、実際には「できない言い訳」であって、実際の懸念は「仕事が増えそうで嫌」がかなり大きいのではないかとは思う。その意味で、「不安を解消する」というより「言い訳を潰す」側面も、本章にはある気がした。

また、本書全体の中でもかなり重要な箇所が、第1章第2節「評価とは何か」である。ここは、小中高などの校種は本当に関係なく、評定と評価の違い、評価をめぐる四つの立場と筆者らの立場、評価観の転換の必要性など、本書のエッセンスとも言える部分が詰まっている。個人的にも、授業が教師の独りよがりにならない重要さや、教師だけでなく生徒の評価観の転換が必要であることなど、これは忘れたくないな、と思う箇所にいくつも出会えた。特に、

目の前の生徒に対して、日常の教育活動の中で、どのような大人になってほしいと願っているのか、そのためになぜこの内容をこのように教えるのか、この内容を習得することでどのような資質・能力が育つのか、その資質・能力にはなぜ価値があるのか、どのような生徒の姿が見られたらその資質・能力をどの程度身につけていると判断できるのかについて、自身の専門性に基づいて説明と対話を積み重ねることが必要です。(25ページ)

というところは、僕は自分がそもそもなぜ「作家の時間」「読書家の時間」をやっているのか、その先にどんな人になってほしいと願っているのかまでを小学生相手に語ったことはなかったので反省。そして、教師の評価観を子どもと共有することは、子どもたちの評価観を変えて意識をすり合わせる上でもとても重要。それを論じた箇所された引用された藤沢(2002)の「ごまかし勉強」、手抜き勉強をする子たちの学習観を整理していて非常に興味深い。僕は未読なのでぜひ読んでみたい。

「評定」の歴史と機能:教育が「独りよがり」にならないために

もう一つ、本書全体を読んで考えさせられたのは「評定」についてである。評定は、生徒の学習や教師の授業を改善する目的で使われる評価とは異なり、生徒の序列をつけたり処遇を決めたりする場面で用いられるので、得てしてネガティブな言及の仕方をされることが多い。実際のところ、「入試の仕組みがそうなっているので、仕方なくつけるもの」「本当はなくて良いもの」と思っている方も少なくないのではないか。僕自身、自分の授業の評価の仕組みが子どもを値踏みする意味での「評定」を前提としておらず、個人内評価(個人内の継続的評価や自己評価)に偏りがちだ。

筆者たちも基本的には授業改善や生徒の学習改善の方法としての評価を重視する立場で、評定を数値で出すのが当然の現状には、批判的な立場である(p82)。さらに、これも一般的な方法である「観点別評価を合算して評定を出す」(AABだから5とする、等)ことも、はっきりと批判している(p86)。本書がよくある教育評価のノウハウ本と一線を画しているのはこういう点においてであり、決して現状追認などではないその姿勢はすがすがしい。

一方で、本書を読むと、筆者らが、「評定」という機能そのものを否定しているわけでないこともわかる。現実に生徒の選抜などがあることも理由だろうだが、とりわけ、教育実践が独りよがりに陥らないための重要な手立てとしてステイクホルダーへの説明が提案されており(p25など)、その文脈で評定の機能を捉えれば、丁寧な説明としての「評定」は、教室実践と社会をつなげるための必要なツールになるだろう。

風越学園でも、中学生になると評定の必要性が増す。というのも、長野県の県立高校入試においては、調査書において基本的に中学時代3年間の評定の提出が求められるからだ。ここでの評定はまさに「54321」の数値なのではあり、小学生までは学校の成績などさほど気にしなかった子たちが、中学生になるといきなり「内申点」という言葉を口にし出すのは、おかしいようでも、残念なようでもある。それでも、評定が社会と教育実践の接点を象徴するものであることは間違いないし、教育が独りよがりにならないために、その機能は必要なのだろうと本書を読んで感じた。だとしたら、制度上争っても仕方ないというあきらめの姿勢だけでなくありうべき評定の形について、もっと現場の側から声を出すことも大事なのかもしれない。

八田・渡邉タッグによる、これまでの総括本か

本書では、僕のアンテナに引っかかった以上のような話題のほか、形成的評価のステップを踏んで総括的評価を仕組んでいく具体的なやり方(第3章)など、渡邉さんの現場時代(もちろんどこでも現場なのだが、教室現場という意味での現場時代)の経験を活かした具体的な事例も豊富にある。八田幸恵・渡辺久暢のタッグは、これまでも『教室における読みのカリキュラム設計』などの印象に残る仕事を残してきたが、その最新版、あるいは渡邉さんの「現場時代」における実践の総括本とも言えるのだろう。

ここからはちょっと個人的なことを書く。僕は、渡邉さんとは彼が東京事務所勤務時代に知り合い、その『こころ』実践の生徒のノートの厚みに圧倒され、授業を見にきてもらったことも、授業を見に行ったこともあった。下記エントリに書いた2015年の訪問記は、今読み直しても、「まだまだ自分には工夫しないといけないこと、できていないことがあるな」と思うくらい、背中の見える距離にいるようで遠い先達のひとりである。

リーディング・ワークショップ実施中。渡邉久暢さん、石川晋さんに授業を見てもらう

2018.05.17

授業見学記@福井県立若狭高校

2015.05.14

彼は、とりわけ、「学習と授業の改善に資する」「持続可能な」という2点にこだわって評価を追求してきた方、という印象がある。そのお仕事はご本人のウェブサイトに一覧でまとめられているが、最近のものだと、「アクティブ・ラーニング時代」の高等学校において 「目標と指導と評価の一体化」を実現するための課題と展望」(2017)や『高等学校 真正の学び、授業の深み』所収の「学び続ける国語の力」(2022)などは、僕も拝読して刺激をいただいた。

2015年に授業訪問をした時も、生徒のノートを朝のうちにさーっと確認して、どんな創発が子ども同士の間で起きると良いかをざっくり頭に入れてノートを机にバラバラに置いていく姿勢の、その芯が通っているところと軽やかさが素敵だった。そんなふうにずっと評価にこだわって実践してきた渡邉さんが、現場を離れてしまったことへの寂しさはもちろんあるのだが、国語という教科の枠にとどまらない評価の話題を正面から扱った本を出されたことは、国語という授業の先に教科を超えたどんな力をつけるかを考え続けてきた渡邉さんらしさを感じもする。

本書を読む限り、どこまでを八田さんが書き、そこからを渡邉さんが書いたのかは、文体ではほとんど見分けがつかない。大学教員と現場教員がそのような書き方で共著を出せるのは、稀有なことだ。そのお二人の関係性も含めて、長年の協働が本書に総括されているのだろう。そして、ずっと現場で評価にこだわってきた渡邉さんが、いったん(?)それともずっと(?)現場を離れて教育庁でどんなお仕事を今後本格的に展開されるのか、僕にはよくわからないが、この先も頑張っていただきたいな、と思う。

 

 

 

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