学ぶことが多い、ホームスタッフとの週の振り返り。

1月後半から、同じホーム(異学年クラス)を受け持つ同僚2名と、週に1回、一週間の中で子どもとの関わりで心が動いたことについて書いて共有して話す機会を持っている。同僚はどちらも地域の公立小学校から期間を限定で派遣されたスタッフ。一人はザ・スーパーティーチャーと呼ぶにふさわしい仕事ぶりの女性スタッフ、もう一人は僕よりも一回り以上若くて、人に対しても学ぶことに対してもとても誠実で、めきめき音を立てて伸びている男性スタッフで、彼らとの時間がとても充実している。

写真は、もう1ヶ月以上前の、雪の降った翌日の風越の風景。思えばふりかえりを始めたのはちょうどこのころ。今はだいぶ暖かくなって、1ヶ月ほどでも季節の流れを感じる。

目次

見える風景がこんなに違う!

同じ場にいるはずなのに、見える風景が違っていて面白い。例えば同じ朝の集いでも、その時に何を見ていたか、感じていたか…が全然違う。まあ、大抵僕が一番へなちょこだ。例えば今日の朝の集いが体育館で氷鬼で遊ぼうとなった時。僕が「えー、また走るのね…」とかのんきに思っている間に、他のスタッフたちは準備段階で誰が声をかけたのか、いつもならこんな風に反応する子が今日は違うぞ、何かあったのかな…みたいなことに気を配っている。その子の性格に応じてどんな声かけをしたか、不安があった時にどんな風に素早く動くのか。子どもと子どもをつなげるためにどんな働きかけをするのか….勉強になると同時に、子どもの見取りに関する自分の無能さを日々感じる。だってあれ、到底できそうにないもの。そもそも妻も含めて他人のことそんなに見たことない…(笑)

国語という枠を持つデメリット

僕は基本的に、風越でも「自分は国語の人間です」というスタンスを貫いている。貫くというよりそうなっちゃう。もちろん子どもたちの読み書きの力を伸ばすことには強い責任感を持ち、そこに全力で取り組み、手応えも感じている。でも同時に、国語という枠を強く持つデメリットもあるなあと気づかされる。

国語の問題を国語以外で解決できない

第一に僕は、国語の授業対象としての子どもにしか基本的に興味を持てない。良くも悪くも持てない。多くの優れた小学校の先生のように、トータルで子どもをみることができないし、そうしたい欲望が自分の中にない。根本的に自分の興味の中心が「人そのもの」よりも「言葉」や「言葉の使い手」に向かっているので、「言葉」を外すととたんに対象に興味が持てなくなり、無力になっちゃう感じがある。

でも、興味が「人」に向けば、もっと色々な広がりが生まれる。例えばある子の国語の授業の問題を、国語の授業の中だけで解決しなくてもよくなる。教科という枠を超えて働きかけられるのは、小学校の先生の(学級担任制の)大きな武器だ。国語以外の他の場面でその子に自信をつけてもらったり、他のクラスメートとの繋がりを作ったりして、結果的に国語の授業でも伸びるようにしていく。「国語の授業のことは国語の授業で解決する。毎時間が勝負」なスタンスの僕は、そういう可能性をあらかじめ排除してしまっているのだ。

想定外のことに驚けない

第二に、国語という自分が得意な分野にいる限り、自分が子どもの発見に対して心から驚く機会はほとんどないのだ、ということ。件の女性スタッフは、総合の授業をとても大事にする。と言うのも、自分の知らないことが起きて心から驚けるからなのだそうだ。「子どもの自尊心が一番高まるのは、大人が褒めてくれるときではく、大人が心から驚いた時」が彼女の持論である。

他にも総合を大事にする理由として、大きな中核活動を柱にした総合があることで、そこに向かって協働せざるを得ない子どもたちが、互いの得意な不得意を認めあっていく土壌が生まれる、ということも言っていた。でも、それはこのエントリでは本題にしないでおく。

一方、僕が国語教師として先輩に教わってきたのは「もし生徒の読みに自分が驚くことがあったら、自分の先行研究不足だと思え」ということ。これも実際その通りで、どんなに生徒が優秀な教室でも(筑駒でも)、10代の子たちが数時間の授業で組み立てる解釈が、これまでの長い先行研究の積み重ねを超えることは基本的にない。論文を10や20も読めば、教室のどんな発言にも「この発言はあの論文の解釈のパターンだな」と頭に思い浮かぶ。だから、もし生徒の解釈に心から驚くことがあったら、それは単純に教師の勉強不足なのだ。驚いている暇があったら勉強しなさい。それが国語教師としての僕を形作った基本的な考えである。

加えて、僕の性格的な傾向もあるのだろう。生徒の想定外の発想が楽しいという気持ちが僕にはあまりなくて、むしろこちらの想定のレールの上で生徒の言葉の力が伸びていくのが楽しい。もう少し正確にいうと、今は、個々の生徒の言葉の力が高まるレールを想定して引き、生徒がその上で走り始めるのを見るのが楽しい。僕にはそういう側面が、確かにある。

しかし、「専門を持つと、想定外のことで驚けなくなる」のは事実だ。件の女性スタッフの論法を使うと、僕は、子どもの自尊心を最も高めるチャンスを永遠に逃し続けていることになる。

教科担任制と学級担任制

ここに書いたことは、僕の性格的な傾向もあるが、教科担任制のデメリットとも重なるはずだ。教科によって分断されればされるほど、子どものことは見えにくくなり、場は作りにくくなる。風越も基本的に教科担任に近い仕組みをとりつつあるけれど、でもこの一年、ホームをつらぬく総合的なプロジェクトがあることで、「心を耕す」ってこういうことで、そのためにこういう動きをするのか、というモデルを見させてもらった。学ぶための自信や安心感を生み出す小学校の先生たちは、本当にすごい仕事をしている。

もちろんこれまでも、口では「小学校の先生って大変なお仕事ですよね」といくらでも言えたし、言っていた。でも、学級を一つの集団としてまとめて、学びの場を作り上げていく職人技の一端に、直接触れることができたのは幸いだった。僕の中には教科専門性が高い方が教師として優れているというバイアスがどうしてもあるから、この経験は大きいな。

だから小学校への教科担任制、良い面もあるだろうけど、もちろん失う面もあるよね、と思う。学びの場が分断されるとか、子どものトータルな存在が見とれなくなるとか、責任意識が希薄になるとか。教科内容そのものよりも、それを学ぶ土台となる安心や自信を育むことの方が大事な時期において、教科担任制がもたらす損失は想定以上に大きい可能性もある。

それでも自分は…という話

しかし、同僚の仕事の価値をわかった上で、それでも自分が自分の仕事として小学校の先生のように働きたいかと聞かれると、できるできないを横においても(そして加味するとさらに)、はっきりNOなのだ。この辺は、自分の興味や性分がやはり中高の(しかも高校よりの)教員なのだなという自覚を深めてもいる。

子どもをトータルで見るのは、教員の権力的眼差しが隅々まで行きわたる感じがあって、僕には息苦しく、好きなスタイルではない。一方で、権力を持たない(ように見せる)タイプの教員になるのも僕には難しいし、何よりも、国語の領域に関しては権力者であることを明示し、時に子どもの意思に逆らってでも「これは必要だからやりなさい」と言える方が、結果として子どもに力がつく実感もある。とすると、自分の権力の範囲を明示して、国語の授業の範囲内ではその権力をしっかりと行使しながら子どもたちの力を伸ばすことに責任を持ち、権力の範囲外では子どもに強い関心を持たない大人。それが良くも悪くも僕のスタイルで、性格的にもそれはなかなか変えられないな。で、これはやっぱり高校の先生スタイルでしょ、という気がする。

国語の授業外のチャンネルを持つ

改めて自分の特性や得意不得意を考えてみると、僕が自分の不得意も含めて受け入れた上で教師としてやっていくには、そんな風に国語の授業に全力投球しつつ、「授業外」のチャンネルを意識的に保つことが大事なような気がする。教師-生徒関係を授業ではしっかり持つ自分だからこそ、それとは違う関係性の場を持っておく。今年度の後半は、意識的にお昼ご飯をホームの子と一緒に食べたり(風越はお弁当で校舎のどこででも食べていいのです)、へたっぴなウクレレをお昼休みに練習したりしていて、最近ではやはりホームの同僚男性スタッフ(イラストが上手!)の影響で毎日ひとつイラストを描いてるんだけど、目に見える効果があるわけじゃないにしても、なんとなくただの大人としてそこにいられている気がする。こういうのは来年以降もなんらかの形で続けられたらいいな。「国語教師」以外のチャンネルを持っておかないと、どうしても子どもたちとの関係性が固定化してしまうし、子供について驚ける機会も減ってしまうから。

スタッフの多様さを活かす

あと、風越学園にいる多様なスタッフの多様さを、僕はまだ全然活かしきれていないなとも感じる。今回、同じホームを長野県の公立小から派遣されてきた2人と持てたことは僕にとってとてもラッキーだった。公立小学校の先生の思いや仕事ぶりを間近で見られたから。風越には、幼稚園・小学校・中学校のそれぞれの領域はもちろん、事務スタッフ(リソース・リエゾンセンタースタッフ)にも多様なバックグラウンドの持ち主がいる。でも、何しろ僕は、多くの知識を獲得することも、子どもが望まなくても勉強を「させる」ことも大事だと思っているので、教育観が根っこから相容れなくて、結果、あまり話をしない人も多い。でも、これではいけないなと思う。その人の思いや良さを実感しない限りは、理解にはたどりつけない。話をするのではなく、一緒に仕事をすることで理解する経験を、他のスタッフとももっと積んでいかないといけないと思う。

とまあ、色々と考えさせられる、良い経験をホームスタッフとの振り返りで得ている。公立校から期間限定で来ている同僚2名は、いずれまた公立に戻っていくのだけど、お互い離れても定期的にミーティングをやりたい、やろうという話になっている。これは本当に実現させて、皆が違う現場に足を置きつつ、お互いの仕事を交流し、刺激がもらえる関係を築いていけたらいいなと思っている。

 

この記事のシェアはこちらからどうぞ!