[読書]人は論理では説得されない。ターリ・シャーロット「事実はなぜ人の意見を変えられないのか」

自分の意見を相手に伝える時、例えば科学的な研究結果など、信頼性の高いデータを用意して相手を説得する。国語の意見文や討論のモデルでもよく見るこの構図は、実際には機能しないことも多々あります。意見の異なる相手が、論理やデータでも説得されない経験をした人は、少なくないはず。そして思うのです。「正しい根拠をこんなに提示しているのに、なんて感情的で、非論理的な人なんだろう!」。相手が、自分のことを全く同じように思っているのに気づかないままで。

この本は、意思決定・感情・影響の研究をする神経科学者である著者が、人が論理やデータでは説得されないこと、そして何に影響されて意思決定しているのかを、様々な実験をもとに述べている本です。基本的には一般向けの本ですが、国語の「論理的文章」や「ディスカッション」の授業にもつながるなあと思って、楽しく読みました。

人は自分の信念に合わせて情報を読む

この本の大事な前提は、「人は結局のところ事前に抱く信念に合わせて情報を取捨選択する」ことを強調した第1章です。人間にはもともと自分の意見を裏付けるデータばかり見てしまう傾向(確証バイアス)があるのに加えて、インターネットで膨大な情報が手にはいる現在は、自分好みの情報を手に入れることが容易であり、かつ、履歴に基づいた検索結果のカスタマイズによって好みでない情報には出会いにくくなっている。そのため、確証バイアスはますます強まってしまうのです。結局のところ、グーグルは常に自分の味方をしてくれるというわけ。だから、インターネット上で議論しても、それは決して合意を見ない。お互いが相手を「論破」したと思って、それを認めない相手の愚かさを揶揄する人格攻撃で、大抵の議論は終わってしまいます。。

こういう時、人は、確かな根拠に基づいた主張を認めない相手を愚かだと思いたくなります。でも、実は推論能力に長けていてデータの扱いが得意な人ほど、情報を合理化して自分の都合の良いように解釈する能力が高くなるので、自分の意見に合わせてデータを巧みに歪めてしまうのだそう。だから、推論能力の高い人ほど説得されない。これも、これまでの経験を省みて、なんとなくわかる話…。

人の意思決定は何に影響されるか?

この前提に基づいて、この本では人間の意思決定が何に影響されるのかという問題についての様々な研究結果や、そこからの知見が述べられていきます。興味のある方のために、説得に関わる人間の認知の癖を書くと、以下のようなもの。

  • 相手と感情を共有すると影響されやすくなる
  • 選択肢を持つと、それだけでコントロール感を持って幸福になる
  • ポジティブな可能性を強調したメッセージには飛びつきやすい
  • ストレスを与えると、その人の判断は無難で保守的になる
  • 他人の意見、特に多数の意見には影響される(一人の専門家の意見よりも多数決を好む)

こういう点を考慮して他人を説得すれば、それは論理で説得するよりもはるかに高い効果を持つ。それが筆者の主張です。

結局のところ、人は自分が見たいものを見て、聞きたいことを聞く。論理やデータでは動かず、周りの多くの意見に流される。そういうものなのでしょうね。そういうバイアスを利用して人を操作したい(説得したい、動かしたい)のであれば、上記の認知の癖を利用することは、確かに有効なのでしょう。逆にいうと、こういう方法を使って僕たちを動かそうとするコミュニケーションも世の中に溢れているわけで、それを警戒したいのであれば、上記の知識を持っておくと役立つのかもしれません。

国語の授業で推論を学ぶ意味って?

ところで、人間がこういう存在であるならば、「論理的な推論」を国語の授業で扱うことにどんな意味があるのでしょうか。ご存知の通り、新学習指導要領の「論理国語」では推論が強調されています。でもいくら授業で「根拠と主張の対応」や論理的推論を習ったところで、それによって人を説得することはあまり期待できない。結局のところ、それは「自分が同意したくない意見に反論するため(自分の意見を変えないため)」にしか使われないのでしょうか

もちろん、今のところ僕は推論が意味がないものだとは思いません。僕も含めた人間がこの本に書かれているようなバイアスに満ちた存在である以上、意思決定には様々な偏りがあるわけで、その意思決定の偏りをチェックする仕組みとして、「非人間的」な推論の技術が必要になると思うからです。これは、松岡亮二「教育格差」の感想エントリ(下記)で書いた、教育実践にも研究的視点が必要だ、と思う理由と重なります。

[読書]自分の「正しさ」に酔わないために。松岡亮二「教育格差」

2019.10.16

でも、一方でこう思います。推論の技術は、あくまである程度アカデミックな世界のお作法として重視され、現実社会での、目の前の誰かを説得する技術としては、役立たないのかもしれません。国語の授業の「論理」って、アカデミックな世界に入るお作法として教えているのか、現実社会での効用として教えているのか、そもそもその目的ってなんだっけ…。もしも、国語の授業が現実的効用を持つ「説得」の技術を扱うのであれば、この本で扱われる内容にも踏み込むべきなのでしょうか?

読み物としても非常に面白い本ですが、国語教育ってこういうことにどこまで向き合うべきなのか、考えさせられる本でもありました。

この記事のシェアはこちらからどうぞ!