2つの論文を読んで英語と日本語の「壁」を痛感する

最近、作文教育についての論文を読んで、英語と日本語の壁を実感する出来事があった。

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きっかけは、文章を書く「間」に注目した英語論文

きっかけは授業で紹介された次の論文。著者は僕もお世話になっているエクセター大学の先生で、ライティングの研究者。

Myhill, D. (2009). ’Children’s patterns of composition and their reflections on their composing processes’, British Educational Research Journal. 35(1), 47-64.
 


エクセター大学のリポジトリからもダウンロードできる。

 ▷ Children’s Patterns of Composition and their Reflections on their Composing Processes 

 Myhill(2009)は作文のプロセスについての論文で、面白いのは生徒が文章を書く途中の「間」(ポーズ)に注目したこと。論文では、そのポーズの回数や頻度によって生徒を4つのタイプに分類して、それぞれのタイプごとの特徴や、出来上がった作文の質との関係を考察している。実は事前によくプランニングすれば質が高まるという根拠には乏しく、一律にプランニングさせる指導が、生徒の書く実態とは合っていないことも、こうした研究から示唆される。

同じテーマの日本語論文が30年以上前にあった!

 

で、この論文を、思い当たりのある日本の研究者さんに教えたら、「この研究を思い出しました」と次の日本語の論文を教えてくださった。

安西祐一郎・内田伸子「子どもはいかに作文を書くか?」(1981), 教育心理学研究,29(4), 323-332.
 


こちらも幸いなことに、お茶の水女子大学のリポジトリからダウンロード可能。

▷  安西祐一郎・内田伸子「子どもはいかに作文を書くか?」 

 読んでびっくり、こちらも子どもが書くときの「間」を扱っていて、Myhill(2009)と同様に間の取り方に応じて生徒の分類を試みている。共通点が多いし、切り口に違いはあるのだけど、とてもよく練られた研究方法で、説得力がある。1981年ですでにこんな論文があったんだ。知らなかった自分が恥ずかしい。

 どちらもとてもよくデザインされた研究なので、作文教育に関心のある方はぜひご一読をお勧めするのだけど、この2つの論文を前に、それにしても…と思ったことがあった。

日本語の論文は読まれないという現実

それは、日本語と英語の非対称な関係だ。もう30年以上も前の安西・内田(1981)は、当時はまだ最先端だったFlower & Hayes (1980)の作文プロセスに関わる研究などを引用しながら自分の研究を説明している。一方で、Myhill(2009)は、研究内容だけで言えばとても重要な先行研究である安西・内田(1981)に言及していない。彼女はライティング研究のハンドブック(下記)の編集に参加し、ライティング研究の専門誌の編集者も務めるほどにライティング研究に精通した研究者だけれども、当然ながら日本語の研究については全く知らない。

The SAGE Handbook of Writing Development
Beard
SAGE Publications Ltd
2009-07-23



日本語の研究者は、英語で書かれた論文にも目を配らなくてはいけない。でも、英語の研究者は、日本語の論文に目を配らない。

この非対称性が、悔しいけど現実なんだなあと思った。いくら日本語で論文を書いても、日本語圏以外の(つまり、日本以外のすべての)研究者の世界では「なかったこと」になってしまうのだ。まあ、よほど優れた業績で勝手に先方が翻訳してくれるなら別だけど、圧倒的多数の研究者にとって学問の世界では英語で書かないといけない、というのはこういうことなのかなあ。英語論文を書いている研究者の皆さんの複雑な心情と苦労に、ちょっとだけ触れたような気がする出来事だった。

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