アウシュヴィッツの「生きる希望」

アウシュヴィッツについて書くことは簡単ではない。

一人でのデンマーク旅行の後、今度は家族の休暇旅行としてポーランドのクラクフへ行っていた。親の僕たち夫婦にとっての旅行の主目的は、ユダヤ人のゲットー跡地であり、何よりオフィシエンチムにあるアウシュヴィッツ強制収容所だった。第二収容所のビルケナウと合わせて合計で約130万人(うち110万人のユダヤ人)が政策的に殺された場所だ。

 ▷ アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所 (Wikipedia)

今回、特に見学を希望していたのは妻であり、僕の役目は子供たちが見るのを怖がった時に外に出て時間つぶしの相手をすること。思った通り子供たちは怖がり、だから僕は今回あまり施設内部の展示を見ていない。それでも、アウシュヴィッツは強い印象を残した。断片的になるけれど、その印象を残しておこう。

展示室前の廊下には顔写真が並ぶ

アウシュヴィッツの展示室前の廊下には、そこに収容された人々の顔写真が残っている(ただし顔写真が残っているのは初期の、しかも選別で残った人々のみで、ポーランド人が中心だそう)。

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アウシュヴィッツに送られた彼らは、最初の選別を経て7割がそのままガス室送り(毒殺)となる。そして、その選別で生き残った人たちもその多くが飢えや強制労働や劣悪な環境による伝染病の蔓延などが原因で、二ヶ月程度で死に至る。顔写真の下には収容された日と死亡日が記されているが、その多くが三ヶ月を超えない。屈強そうな若者も、口元に笑みさえ読み取れそうな人も、二ヶ月後には死んでいる。

処刑を担当する囚人の部屋

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これは、収容所内で処刑を担当していた人々が住んでいた部屋だ。彼らもまた被収容者である。一般の被収容者が狭い場所に一段5〜6人ずつで寝かされていたのと対照的に、きちんとした部屋で寝られる待遇の良さ。収容所では、処刑もガス室の死体の運搬や焼却まで被収容者が行い、そうした役目の人は一般の被収容者より厚待遇を得ていた。一般の被収容者の間でも相互監視や連帯責任の仕組みが取られ(例えば逃亡者が出ると見せしめに10人が餓死刑となった)、後期には食事の配給も働きぶりによって量に変動を設けていたらしい。収容者の間にヒエラルキーを設けて、決して仲間同士で連帯させない。憎しみを、抑圧者ではなく「自分より恵まれた同胞」に向けさせる。権力側の常套手段である。

同胞を処刑することで厚待遇を得た者も、しかし、数ヶ月後くらいには処刑されてしまう。同胞を処刑することで自分の死を先延ばしにした彼らは、自分のことをどう考えていたのだろう。数ヶ月後には処刑されると言っても「数ヶ月は生きられる」ことは大きな希望だったはずだ。その生きる希望のために、同胞を、あるいは進んで殺していたのだろうか。

「生きる希望を持たせる」こと

統治の基本は「生きる希望を持たせること」なのだろうけど、大量虐殺を目的としたこの施設でも、人々の「生きる希望」が徹底して統治に利用されていたことは、静かな衝撃だった。「労働が自由を作る」と入り口に掲げられた言葉は、劣悪な環境下でも「ここでの労働を乗り越えたら生き延びられるのではないか」というかすかな希望に、人々をすがらせただろう。

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強制労働の出発時と帰還時には、ここで毎日オーケストラの演奏があった。新たな被収容者が送られてきた時やガス室送りの時には、不安を打ち消すためか、ことさら明るい音楽が奏でられたという。その演奏ももちろん被収容者自身によるものである(ここでも「分断して統治せよ」で、彼らもまた良い待遇を得た)。

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アウシュヴィッツ移送時には、人々は身の回りの品を鞄ひとつに詰めて名前を書くことを求められた。そうか、日用品を持って行ってもいいんだ。名前を書くくらいだから、一時没収されても後で戻ってくるだろう…。そう安心してアウシュヴィッツに来て、荷物を預けた人も、あるいは多かっただろう。そういう、絶望寸前での「生きる希望」が、ここでの暴動や反乱を最小限に防いでいた。

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選別の時にも、子供達は労働力にならないのでほとんどすぐにガス室送りになるが、その時は母親や引率の教師も一緒だった。その方が子供は安心してパニックを起こさず、母親や教師は子供を生かすためを思って抵抗しないから。

本当に、極めて合理的。よく考えられていて、ため息が出る。実際には9割以上が殺された被収容者たちは、当たり前だけど、みな生きたかったのだ。

殺していく側の人々は…

もちろん収容所には、そのかすかな「生きる希望」を利用してユダヤ人たちを管理し、そして殺していくもう一方の人々もいた。彼らの側にも「仕事だから」「命令だから」「私にも自分や家族の生活がある」「こうしないと自分に不利益や害が及ぶ」という理由があっただろうことは容易に想像がつく。彼らもまた、生きたかっただけだ。できればより良い暮らしを。

アウシュヴィッツの初代所長であるルドルフ・フェルディナント・ヘスの自宅は、収容所のガス室のすぐ隣にあった。史上稀な虐殺施設のすぐ目の前で、妻と5人の子供とともに家庭を築いていたヘスは、戦後、その罪を問われてこの地で絞首刑になる前、子供達一人一人に呼びかける思いやり深い手紙を残している。その中に次のような一節がある。

 ▷ The last letter of Rudolf Hoess

お父さんの人生の最大の過ちは、上司に言われたことを全て忠実に信じてしまい、それが正しいことかどうかあえて考えることを少しもしなかったことだ。自分の目を見開いて歩きなさい。決して一つの立場からではなく、全てについて、賛成反対の立場を考えなさい。自分が何かをしているときには、ただ頭で考えるだけではなく、心の声に耳をすませなさい。

ヘスだけでなく、虐殺に関わった多くのドイツ人が、職務に忠実で、家庭を大事にし、自分の身を守ろうとする普通の人々だっただろう。収容されたユダヤ人たちに直接手を下すのは彼ら自身ではない。毒ガスで苦しむ人々を直接見ることも、その死体を自分で処理することもない。虐殺に使ったチクロンBだって、それ自体は殺虫剤である。普通の人々の虐殺に対する心理的負担を最小限にしつつ、それに慣れていくような「配慮」が入念にされている。

もし自分がここにいたら…

収容所内を歩いているうちに、自然と「もし自分がこういう状況にいたら…」と妻と話すことになった。ドイツ人、被収容者いずれの立場になったとしても、この状況にいたら、残念だけど自分たちが人道的立場を貫けるとは思えないという結論になる。コルベ神父やコルチャック先生、シベリア抑留での鹿野武一には、僕たちはなれない。自分が生きるため、進んで手を下すか、それができなくてもいろいろな言い訳を並べながら傍観し、ただ「目の前の仕事をする」だろう。そして、運良く生き残ることができたら、悲しい顔で「あの時、私には何もできなかった。私も被害者だった」と言うだろう。

「だから、この状況になる前に止めるしかないし、止められなければせめてさっさと逃げるしかないよね」。でも、もう止められないと知ったとき、危険を判断し、逃げることはできるのだろうか。自分のこれまでの日常生活、仕事、身近な人々。状況が悪化した時でも、そういうものを捨てて逃げることは勇気がいる。「そうは言ってもまだ大丈夫」「急には悪くならない」「みんなも残っている」「もう少し様子を見よう」と、逃げないための言い訳はいくらでもあるし、正常性バイアスから抜け出すのは容易ではない。『あのころはフリードリヒがいた』のユダヤ人フリードリヒの父親も、迫害が明らかになり、亡命した方が良いと忠告を受けた時でさえ「今の社会で中世のようなひどいことが起きるわけはない。耐えればじきに良くなる」と思って逃げなかったのだ。

あのころはフリードリヒがいた (岩波少年文庫 (520))
ハンス・ペーター・リヒター
岩波書店
2000-06-16


出口のない道を歩くような違和感

本当に、アウシュヴィッツについて書くことは、簡単ではない。ここはあまりにもよく出来ている。もう少し僕に勇気があれば、このおぞましい計画的な虐殺にストレートに反発できたのだろう。あるいはもう少し知恵があったら、また別の視点から見ることができたのだろう。今回の僕はそのどちらも欠いていて、出口のない同じ景色の道をずっと歩いているような、ただ気持ちの悪い違和感ばかりが残った。

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