作家の時間は、非・作家的な営みである? 教育実践が抱える「規範化」の問題

前回のエントリ(下記エントリ)を書きながら「あれ、ちょっと難しいな」と思ったことがあります。それは、学校教育における文章の熟達って、結局どういうことなんだろう?ということ。学校教育における文章の熟達って結局は規範化を志向するものであって、結果として文章がつまらなくなる側面を含んでいる、ということを書きました。

書き手の成長のプロセスに敬意をもつことの大切さ。

2025.03.21

 

学校教育とは規範化/パターン化である

前提として、制度化された学校教育における生徒の成長・熟達って、「ある規範・パターン・ルールを身につける」ことと不可分だという認識からスタートします。これは、公教育が「子供の社会化」を目的としている以上は当然のこと。え、風越学園もそうなの?と意外に思われるかもしれませんが、もちろんそうですよ。風越学園が特定のカリキュラムを持つ以上、そこには規範化への志向が必ず存在します。「風越らしい」という「らしさ」が生まれていれば、それこそが規範化の結果です。たとえそれが、いわゆる普通の学校の規範化のかたちと少し違っていても、規範化は規範化。

書くことの教育における規範化

書くことの教育においても同様の問題があります。「教育とは社会化である」という観点からは、文章はコミュニケーションの手段であるのだから、その了解可能性を高めるために規範やパターンを教えることと、作文教育は無縁ではいられない。だから、作文指導ではどうしても文章創作における規範やパターンを教えることになる。句点や読点、主語・述語といった文法的知識はもちろん、文章構成や、よくある言い回しを教えるのもそうでしょう。作文教育における書くことの熟達とは、要は規範を身につけること、だったりするわけです。それだけではないが、どんな実践であっても、それを完全に欠いてはいけないとはいえるでしょう(欠いていたら読まれませんからね)。

「作家の時間」における規範化

「作家の時間」でも話は同じです。「作家の時間」は、お題を与えられた作文教育よりも相当自由に書かせていますが、でも、本当の意味で自由なわけではありません。ミニレッスンやカンファランスを用いて、最低限の文法ルールを教えたり、物語の展開やら説明文の構造やらを教えたりして、要は自由に書かせる中で文章を書く上での規範を教えている。もちろん程度問題として自由の幅はひろいけれども、最終的には規範を教えることからは無縁ではいられない。また、仮に完全に無縁になったら、学校教育で「作家の時間」をやることはできないでしょうね。

でもこうした規範化は、同時に書き手の個性を殺し、文章をパターン化された「つまらないもの」にもしていきます。よく作家のエッセイなんかで学校の作文教育を批判するのは、こういう無個性化の文脈ですよね。でもまあ、言ってしまえば、これはもうしかたないんです。事実としてはその通り。だって、「社会化」って、要するに「無個性化」のマイルドな言い換えですから。もうちょっと言葉を選んで言っても、「社会から許容される個性になれ」(許容されない個性にはなるな)ということですから。だから、「作家の時間」の実践者が表面上では個々の書き手の個性を大事にしているように見えても(これは実際そうだと思う)、自分が最終的には無個性化に加担していることは、認めざるをえない事実でしょう。だから、学校教育の枠内で文章の書き方を教えられ、それに熟達すればするほど、文章はまとまりよく、しかし、つまらなくなっていく…。あれれ…? おかしいな…?

作家の時間は、非・作家的な営み?

ところで「現代」という冠がつくジャンル全般にも言えることですが、小説や詩という文学的営みには、社会の既存の規範を相対化/批判したり、そこからの逸脱をめざす側面があります。すべてがとは言わないけど、原理的には文学は「反・規範」の色彩がある。だとしたら、「作家の時間」は、少なくとも学校教育の中で行われる作家の時間は、その名に反して、反とは言わないまでも、非・作家的な営みなんでしょう。実際に、学校教育の中での「作家の時間」と、作家が市民相手に行う創作ワークショップでは、こうした規範の取り扱いでやはり質的に違いがあるように感じます。具体的には作家の創作ワークショップのほうがより規範から自由であると感じることが多いのです。

実践者は、「作家の時間」の自由さに目を奪われるかもしれないし、またそう語るほうが心地よい。けれど、学校教育の一環として行なっている以上は規範化からは逃れられないし、そこを無視しては実践の基盤がゆらいでしまう。当たり前なんだけど、授業って、そういうジレンマやバランスの上に成り立っている事実から目を逸らしてはいけないな、と思いました。

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