外部の有名な実践家よりも、校内の同僚の授業を見る。コミュニケーションツールとしての授業記録の価値。

今年よかったことの一つが、校内研修で片岡利允さん(とっくん)が提案した「保育・授業の記録を読もう!書こう!」という研修に乗っかったことだった。ほんとにいい経験をさせてもらっている。今日はそれに関連して、授業見学についてのエントリ。関連する本は、授業づくりネットワークのこの号かな?

この写真も2024年夏の思い出蔵出し画像。赤岩の頭から、硫黄岳の山頂を眺めたところですね。ここはいつもテンションがあがるところです。
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授業見学にまつわる黒歴史…

今から20年以上前の初任の頃。僕の授業見学への姿勢はほんとひどかった。初任の私立洗足学園中高では初任者研修として先輩先生方の授業を見学してレポートを書く研修があったのだけど、今回そのデータを掘り返して読んだら、吹き出してしまった。だって本っ当に偉そうなんだもん…。「この授業の良し悪しを俺様が判定してやろう」「ここをこうすればもっと良くなる」という筆致で、こりゃあ誰がどう見ても嫌な新人だわ。どうして初任者なのにこんなに自信満々なのか、我ながらほんと不思議。「自分の方がたくさん本を読んで物を知ってる。受験指導もできる」みたいな感覚だったのかな。恥ずかしい。当時お世話になった先生方、本っ当にすみませんでした….!

その後、筑駒に籍を移すと、幸い平日に研修日が取れる環境に恵まれたこともあり、けっこう外に授業見学には行かせてもらった。しかしまだ数年は引き続き生意気盛りの時で、とあるメソッドを提唱していた高名な研究実践者(名前は伏せる)の公開授業を見て勝手な義憤にかられ、「これでは生徒がかわいそう」という失礼な評言を本名入りで書き残したこともある。その方、のちに文科省のお仕事で僕の同僚と一緒になった際に「そちらにあすこまという教員がいますね?」とおっしゃっていたとのことだから、さぞご立腹だったのだろう。こちらも申し訳ありませんでした…!

以上の黒歴史から見るに、当時の僕は「一回の授業見学で授業の良し悪しが判定できる」「しかも、自分にその力量がある」と、根拠なく思い込んでいたらしい。まあ、バカとしか言いようがない。

「良いものを見る」という授業見学観の罠

筑駒に10年以上在籍して、本当に多くの授業を見させてもらったし、時には自分の授業を見てもらった。かえがたい経験だったけど、当時の僕の考えは「授業見学とは、優れた実践家に教わりにいくもの」だった。注目していたのは生徒よりも教師の振る舞いだったり、その教育手法だったり、あるいは学校の施設・設備や体制だったり。いずれにしても「良いものを見る」という授業見学観から、僕は長いこと抜け出していなかった。過去の記録を見ても、当時公立中にお勤めだった甲斐利恵子さんはじめ、開成(現・筑駒)の森さん、お茶中の宗我部さん、同じくお茶中の渡辺さん、福井の渡邊さん….極め付けはアメリカまでいってナンシー・アトウェルまで。まあ、スターの出演するショーを見に行って満足するようなものだ。初めから良いものを見る期待を帯びた目で見るのだから、なんでも好意的に解釈して良く見えるし、満足度は高い。

もちろんその時々では、それなりの切実な理由や興味があって見学に行っている。でも、具体的理由を捨象して構造だけを見れば、僕が「スターの出演するショー」を見に行っていたのは明らか。今思うと、こういう授業見学を長く繰り返していたのは本当にもったいなかった。いや、もちろん優れた実践者から学べることはたくさんあるのだけど、下手するとそれぞれの実践を娯楽として消費するだけにもなりかねず、もっとやりようはあったな、とふりかえって思う。

軽井沢に来て、ありがたかったこと

とまあ、僕の浅はかでミーハーな授業見学観は長く続くのだが、それを揺さぶってくれたのが2019年に軽井沢に移住して、地元の軽井沢西部小学校の授業をいくつか見学させてもらえたことだ。それまでの僕の発想では、「国語界隈で有名じゃない先生たち」「自分が仲間と認める以外の人たち」(←嫌な書き方だとわかっているが、あえてこう書く)の授業を進んで見学に行くなんてことはあまりなかった。でも風越がはじまるにあたって小学校の授業がどういうものか学ぼうという動機で見た時に、「ここの小学校の先生たち、すごいな」と思ってしまった。そのすごさは、筑駒の先生たちが持っていた教科専門性の高さではないのだが、自分には決してできない雰囲気づくりをしたり、子供への対応をしたり、エピソードを語ったり、というすごさ。僕がそれまで接してきた「すごい先生」(名門校でハイレベルな授業をしたり、学識が深かったり、論文を書いていたり…)とは異なるタイプの「すごい先生」が、西部小の校内に何人もいる事実は、狭い見方にとらわれていた僕の見方を広げてくれたと思う。

授業も先生も、環境によって変化する

「すごい先生」という言葉に関連しては、苦い思いとともに思い出すことがある。それこそ外部から「スター」と見られがちな実践家を集めた2020年開校当初の風越において、伸び伸びとやっていく実践家だけでなく、窮屈な思いを抱えて良さが失われてしまう実践家もいた。ここで詳しくは書かないし、それぞれの思いや事情もあるだろう。でも、「すごい先生を集めたら自動的にすごい学校になるわけじゃない」「すごい先生があらかじめいるのではなく、環境との相互作用の中で、先生はすごくなったりそうでなくなったりする」ことを、開校数年で僕は心の底から実感した。その環境は、子どもというより大人同士の影響のほうが大きい。

軽井沢に来てからのこれらの経験のおかげで、「すごい先生のすごい実践を見る」という授業見学観から、遅まきながら僕は少しずつ距離をとれるようになってきた。そもそも一回の授業で良さやすごさなんてわからないし、すごい先生があらかじめ決まっているわけでもない。そういう前提を持てるようになって、僕は前とは違ったスタンスで授業を見られるようになってきたと思う。その教室で何が起きているかに注目したり、誰か一人の視点で考えたり、授業者の背景にある願いに思いを馳せたり….。長い時間がかかってこの程度だけど、ほらまあ、初期値がひどすぎたから….(笑)

同僚の授業を見て、話を聞くことの価値

いま、こうやって書きながら僕は、「自分の授業見学史」についての物語をつくろうとしている。書く前は決してこんなつもりなかったのだけど、最初につい初任の頃を書いたせいでこうなってしまった。

さて、そんな中で今年、片岡利允さん(とっくん)が提案した「授業記録を読もう!書こう!」という校内研修に参加している。僕のそもそもの動機は、下記エントリに少し書いたように「とっくんの熱い語りに胸を打たれたから」で、本当は自分でも企画を開こうと思っていたのをとりやめて参加したのだ。いやあ、ナイス判断だったよ4月の自分。

駆け抜けて月末の研修日!今年は授業を見ること、記録することを頑張ろうと思えた一日。

2024.04.26

上のエントリを読むと、当時の僕は「授業の見方や授業記録の書き方を磨きたい」と思っていたことがわかる。でも、その後、同じ56年ラーニンググループを組む同僚たち(いわゆる「担任団」)の授業を順番に見学させてもらい、その記録をとり、その記録をめぐって一時間ほど話し合うことを繰り返す中で、記録の書き方を磨くよりも、記録をめぐって話し合う時間じたいがとてもいいなと思うようになった。

話し合いの中では、授業記録をもとにその人が授業中に感じたこと、迷ったことなども聞けば、この先どう考えているのかも聞く。そもそもどうしてこの単元をこういうふうにしたのかを聞けば、たいていはもとにもっていた願いだったり、その出発点となる経験にも話がおよぶ。授業記録をめぐっての一時間は、同僚とのとても豊かなコミュニケーションの時間になるのである。見ているだけではわからないその人の思いに触れ、そこからそのすごさに思い当たる。

同僚の授業を見てその話を聞くことの価値とは、シンプルに、「その同僚の物語を共感的に聞くきっかけになる」「敬意を抱くきっかけになる」ことに尽きる。「あなたの話を聞かせてよ」。いまの僕が授業記録をつけることを通してやりたいのは、極端に言えばこれだけだ。5月から12月までをかけて、同じ学年団のスタッフの授業をようやく全部見て話を聞くことができた僕は、このインタビューからずいぶん元気をもらったように思う。今年は例年にも増して「自分は学年スタッフに恵まれているな」と感じているのだけど、それもきっと、実際に恵まれていること以上に、こうやって授業を見て話を聞いて、その人の考えやすごさに触れる機会を持てたからなのだろう。本当は、これまでの学年のメンバーみんなの授業も見ておくとよかった。そうすれば、その人のすごさにもっと触れることができたに違いない。

ちなみに、僕は前任の筑駒でも、僕と同僚の二人の発案で「オープンクラス」という名称の授業を見合う会を細々と継続していた。これは、「技量が高い個人商店の集合体」的色合いが濃かった当時の環境でどうやって教員としての共同性や力量の向上をはかっていこう、という動機ではじめたものだ。今はこのときと違って1対1でやっているので、より、相手に聞きたいことを聞ける感じがある。

「できない自分」に目が向くときは…

もちろん、話を聞くと元気が出るだけではない。話を聞くことで浮き彫りになる価値観の違いも当然ある。また、風越には伸び盛りの比較的若い同僚が多いので、「この人はこんなふうに授業準備を頑張っているのに自分は…」「この人は子どもから出発して授業をつくっているのに自分は…」と、つい比較の目が出て「できていない自分」に矢印が向いてしまうときもある。そういう時は、けっこう苦しい。でも、そういう自分の苦しさを風越ではオープンにすることができるし、じっと聞いてくれる同僚がいる。先日もそうだった。そういうありがたい同僚に囲まれている限り、自分はここでまだまだ頑張れるような気がする。そして、自分も誰かにとってそういう存在の同僚でいられるか自問する。

コミュニケーション・ツールとしての授業記録

もちろん、授業見学や授業記録には、さまざまな意義や価値がある。ある特定の実践を発信したり、全国に広げるための記録もある。授業見学だって、「あこがれのあの人の授業を楽しみに見にいきたい」という形の見学だって、全く否定されるべきものではない。あこがれが教師人生の成長に寄与する部分って、とても大きいと思うから。いろんな授業見学や授業記録がある中で、でも、今の自分は、授業記録のここに書いたような価値を感じることができて、本当によかったと思う。

自分は、基本的にはコミュニケーションが面倒くさい人間だ。明るくて賑やかで楽しい場は苦手だし、オフの時間に同僚と一緒に遊ぶとかもない。雑談スキルもない。そういう自分が同僚のことを理解するときに、「授業を見学して記録をつけ、話を聞く」ことがこんなに有力な手段になるとは思いもしなかった。コミュニケーション・ツールとしての授業記録。その力強さに出会えたことは、今年の大きな収穫だった。

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